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ストーカーより怖い画家の呪い…=世説新語

「世説新語」(明治書院「新書漢文大系21」)シリーズもいよいよ大詰め。「顧之(コガイシ)」の逸話で掉尾を飾ることといたしましょう。

顧長康、人を画くに、或いは数年まで1)モクセイを点ぜず。人其の故を問う。顧曰わく、四体の2)ケンシは、本妙処に関する無し。伝神写照は、正に3)アトの中に在り、と。(巧藝篇13)

1)「モクセイ」=目精。ひとみのこと。「目睛」でも正解。「精」には「澄んだ瞳」という意味がある。「睛」に当てた用法。目眦(モクシ・モクサイ=まなじり、めじり)、目睫(モクショウ=目とまつげ、転じて非常に差し迫っていること)、目挑心招(モクチョウシンショウ=目でいどみ、心で招く、遊女が目で誘って誘惑するさま、ああ挑まれたい…)、目睹(モクト=目で見る)。「精」は「しらげる」の訓読みがある。このほか、精衛塡海(セイエイテンカイ=いつまでも悔やむこと)、精覈(セイカク=詳しく調べる)、精悍(セイカン=動作がするどい)、精彊(セイキョウ=すぐれて強い)、精魄(セイハク=たましい)、精舎(セイシャ=庠序)、精麤(セイソ=細かいこととぞんざいなこと)、精緻(セイチ=詳しく細かい)なども押さえましょう。

2)「ケンシ」=妍蚩。美しいことと醜いこと。妍醜とも、蚩妍ともいう。「妍」は「うつくしい」、「蚩」は「みにくい」。妍好(ケンコウ=器量よし)、妍冶(ケンヤ=うつくしくなまめかしい)、妍和(ケンワ=景色が美しいさま)、金妍児(キムヨナ=バンクーバー五輪金メダルの最有力候補)、蚩眩(シゲン=ばかにしてだます)、蚩蚩(シシ=実直、おろか、乱れる)、蚩笑(シショウ=嘲りわらう、嗤笑)、蚩尾(シビ=しゃちほこ、鴟尾)、蚩尤(シユウ=兵乱・凶年の兆しとされる星の名)。「おろか」の訓読みもあるので要注意。

3)「アト」=阿堵。その、それ。晋代に流行った指し言葉。阿堵物といえば「銭」でしたね(ここ参照)。ここでは「ひとみ」を指しています。

【解釈】 顧長康(顧之)は人を描いて、数年間も瞳を描き入れぬことがあった。ある人がそのわけを尋ねると、顧は言った。「姿態の美醜は、もともと絵の真髄とは関係がない。精神を伝え、その真影を伝えるのは、正にこのうち(ひとみ)にあるのだ」。

明治書院によりますと、顧之(字は長康、341~402)は、謝安が「蒼生有りてより来(このか)た無き所なり(この世に人あって以来、なかったものだ)」と絶賛した(巧藝篇7)ほどに絵画に巧みであった、とあります。このため、「六朝時代の梁の張僧繇(チョウソウヨウ)、宋の陸探微(リクタンビ)とともに画家の三祖(唐の呉道玄=ゴドウゲン=を含めて四祖とすることもある)の一人に数えられる」と中国の絵画史上でも屈指の画家であるといいます。その画技の秀逸さを語ったエピソードは、この他にも『世説新語』中で何篇かが載っているようですが、同書では「晋書」文苑・顧之伝に載っている次の逸話を紹介しています。

隣家の女性に言い寄って袖にされた顧之は、その女性の姿を壁に描いて、その心臓にいばらの針を突き刺した。女性はそのまま心痛の病気にかかってしまった。この時とばかりに顧之が情を尽くして言い寄ると女性はそれを拒まずに従った。そこで顧之がこっそり画中からいばらの針を抜き去ったところ女性の病気は平癒した。

恐らくは顧之の描いた絵が「迫真の真髄」を極めたものであることを称賛する趣旨だと思われますが、「現今のご時世からいえば顧之の行動はストーカーまがいのものとして大半の女性から眉を顰められ、非難されても致し方あるまい」(同書、P136)との感想もしたためられています。思いの遂げられない女性を怨念を罩めて絵に描く。ここまではありでしょうが、剰え針を突き刺すとは。。。丑三つ時の呪いの人形じゃあるまいし。。。これじゃまるで「巫蠱」ですな。こわ。弱り目に付け込むストーカー恋愛。こんなことまでして手に入れたい女とは…。いや、断られたことが腹に据えかねたのでしょう。手段を選ばず女を屈服させることに快感を見出したのかもしれません。ま、針を抜いたら治ったんだからいいんだけどね。今度は女の逆襲が始まりはしないか?

さらに、同書は、顧之には「一藝に秀でた天才」にありがちな子供っぽい無邪気な面があって、砂糖黍(=蔗)をいつも先っぽから食べていた理由をたずねられて、「だんだん佳境に入っていくのだ」と答えた。世説新語「排調篇59」に載る別の逸話を紹介して結んでいます。これは「蔗境」(シャキョウ)の故事ですね。砂糖黍は根もとに行けば行くほど甘みを増しますからね。月見饂飩の卵を先に潰して食べてしまうか、最後まで残してぺろりと食べるのか?ちょっと違うか。

いずれにせよ、蔗境は転じて、だんだんとお話が面白くなるところを指すようになりました。このblogもまだまだ蔗境は先ですよ~。さすがに年末は忙しくて毎日の更新はできなくなっておりますが、辛抱してお付き合いくださいね。また正常状態に戻りますから。

次回から新シリーズが始まります。ご期待ください。
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妻が夫に仕掛けた高等戦術?=世説新語

「世説新語」(明治書院「新書漢文大系21」)シリーズから、本日は「謝安」の逸話を二つ紹介します。子供の教育に親がどこまでかかわるのか?母親なのか父親なのかはたまた…?最初のエピソードは親ならだれでも抱える悩みをさりげなく浮き彫りにしています。

謝公夫人、児を教へ、1)タイフに問う、ア)那得ぞ初めより君が児を教うるを見ざる、と。答えて曰わく、我、常に自ら児を教う、と。(徳行篇36)

1)「タイフ」=太傅。「書経」に出てくる官名。天子の補佐役。三公の一つ。「傅」は「かしず・く」とも訓む。傅育(フイク=そばにいて身分の高い人の子を守り育てる)、傅説(フエツ=星の名。後宮で子を求めるときにまつる)、傅会(フカイ=無理に理屈をつけてこじつける=附会)、傅婢(フヒ=おもりの妾)、傅姆(フボ=めのと)、師傅(シフ=おもり役)。

ア)「那得ぞ」=なん・ぞ。反語の漢文訓読用法。「那ぞ」も「なんぞ」。

【解釈】 謝公(謝安)夫人は子供を教育していて、夫の太傅に尋ねて言った。「どうしてあなたは一向に子供を教えようとなさらないのですか」。夫は答えて言った。「私は日ごろの生活の中で自然に子供を教育している」。

謝安(320~385)は清廉潔白を以て知られた人で、「蒙求」巻上に「謝安高潔」の故事が載っています。また、「晋書」謝安伝には「家に処れば常に儀範を以て子弟に訓ゆ」という彼の「教育ポリシー」も載っていて、明治書院によれば、「自らの行動を一つの儀範として示すことで子供の教育を行っていたらしいが、夫人にはその真意が伝わらなかったとものと思われる。しかし子供は父の背中を見て育ち、瑤(ヨウ)・琰(エン)の二人の子は家名を落とさず、特に次子琰は東晋末の内乱に殉死して忠粛と諡された」と謝安を“支持”しています。

学校の教育力低下が言われて久しいですが、それと同時に家庭の教育の在り方にも焦点が集まっています。しかし、親父の威厳なんて今どきあるのか?「庭訓」という論語に載っている言葉があります。家庭での躾や教えのことです。孔子が、庭を通った息子の鯉(リ)を呼びとめて、詩や礼を学ぶべきことを教えた故事に由来します。「黙って父親である俺の背中を見ろ」と何もしない謝安とは、対極の位置にある教育スタンスと言えるでしょう。

孔子のように、詩経から礼義まで子供に手取り足取り教え諭すのがいいのか。それとも謝安のように、自分の生きざまを子供に見せることこそ教育だというのがいいのか。人によって分かれるところでしょう。ま、両方バランスよく目配りできるのが「優秀な父親」ということなんでしょうが、そんな“スーパー父ちゃん”なんていないですよね。

ところで、子供の教育問題で妻が夫に愚痴をこぼすシーンは現代の日本の家庭のそれかと見紛うばかりですな。それにしても謝安夫人が「あなたはどうして教育されないのか」などとぼやいたのはなぜでしょうかねぇ。子供が乱暴すぎて手に負えないからなのか?夫が無関心すぎて腹に据えかねたからなのか?夫婦仲がいいんだか、悪いんだか。。。教育をめぐって母親と父親が議論することは大事ですが、「私一人じゃできないわ。父親なら何とかしてよ」VS「俺は仕事で忙しいんだ。それは母親の役目だろ」――その見解の溝が埋まらないのも世の常。父親が事細かに子供の躾に口出しするのもどうかと思う半面、母親の抱えるストレスが子供にいい影響を与えるわけなく、要は夫婦円満。これが最大の「教育的効果」が得られる秘訣かもしれませんね。


兄弟があなたより先に出世してしまった場合、心から祝福できますか?謝安の次の逸話は、そんな人間の本質、器の大きさを剔り出しています。

初め謝安東山の居に在りて2)フイたりし時、兄弟に已に富貴なる者有り、家門をイ)集翕し、人物を3)ケイドウす。劉夫人戯れに安に謂いて曰わく、大丈夫当に此の如くなるべからざらんや、と。謝乃ち鼻を捉えて曰わく、但だ恐らくは免れざらんのみ、と。(排調篇27)

2)「フイ」=布衣。一般庶民の着る麻や綿の服、転じて、官位のない人、庶民。「ホイ」と読めば、日本の官位で六位以下の役人を指す。布衣之極(フイのキョク=庶民としての最高の出世)、布衣之交(フイのまじわり=庶民の付き合い)。

3)「ケイドウ」=傾動。傾き動かすこと。聳動。その名を世間にとどろかすこと。

イ)「集翕」=シュウキュウ。あつめること。「翕」は「あつ・める」「あつ・まる」。翕赫(キュウカク=物事の盛んで激しいさま)、翕合(キュウゴウ=多くの物をあつめあわせる)、翕忽(キュウコツ=急に起こりふと消える)、翕習(キュウシュウ=勢いの盛んなさま)、翕如(キュウジョ=多くの楽器が一斉に揃って鳴るさま)、翕然(キュウゼン=ぴったり一致するさま)、翕翼(キュウヨク・つばさをおさむ=鳥が翼をたたんでおさめじっとしている)。翕は「おさめる」とも訓む。


【解釈】 以前、謝安が東山にいて、官に就いていなかったとき、兄弟には、すでに富貴になっていた者がおり、一族の者をあつめ、世間の耳目を聳動させていた。劉夫人は謝安にたわむれて言った。「男子たる者、このようであるべきではありませんか」。謝安は鼻をつまんで言った。「どうせ免れまいな」。

最後の謝安の台詞である「但だ恐らくは免れざらんのみ」。「免れざらん」の主語と目的語が暈されて真意を曖昧にしています。これについて明治書院は、「二通りに解釈される」と指摘する。すなわち、一つは「いずれは自分も世に出ることを免れまい」、もう一つは「兄弟は今は時めいてはいても、いずれは災いは免れまい」。前者は、「いずれ世が自分を必要とするだろうという気概に溢れた、いかにも謝安らしい言葉」との解釈。これに対し、後者であるなら、「将来の兄弟の不幸を予告する皮肉な内容」であり、「後に東晋の国政を牛耳った宰相謝安の言葉としてはいささかけちくさい」と評しています。

「いつか見ていろ俺だって」との思いを秘めて表面的には祝福する。これが最も無難なリアクションでしょうか。その根拠に乏しい場合は言うだけ虚しいですからね。だから、「男は黙って何とかビール」じゃなけど、「免れざらん」と言う言葉で誤魔化して、その場を何とか取り繕う格好ですね。一方、「この世の春はいつまでも続かないさ」と敢えて言葉に出す。これは究極の嫉妬ですね。兄弟関係が相当拗れているとお見受けいたします。「いささかけちくさい」というのを越えて空恐ろしい。

さて、人としてどちらが真っ当な態度なのでしょうか?正解は「どちらもありで、どちらもなし」といったところかな。それよりも、「免れざらん」の前に「鼻を捉えて」とありますが、恐らくこれは自分の鼻ではなく、兄弟の出世を引き合いにして「大丈夫当に此の如くなるべからざらんや」と、夫に諷った劉夫人の鼻でしょう。だから、「災いが降りかかるのを免れないのはお前だ」と寓意したと見るのが最もまともな解釈ではないか。これはどこにも書いてありません。迂生の勝手な解釈ですが。

やはりここでも夫婦仲の悪さが浮かび上がります。子供の教育のみならず夫の出世にも口を出す夫人の浅はかさ。古来、名立たる毒婦は多いですが、劉夫人もその一人に列ねられても可笑しくありませんな。だけど、その女を娶ったのも謝安本人なんですよね。「むかしはそんなでなかった、俺の見る目がなかった」と嘆いてみても自己責任。

しかし、さらに一歩奥まで穿つことはできないか。この後、謝安は最終的には「大出世」を遂げているわけで、もしかしたら、劉夫人の「高等戦術」だったのではないか。彼女の皮肉の一言が、夫の尻を叩き、そのやる気に火を点けることに成功したとしたら…。一番ほくそ笑んでいるのは劉夫人ではないか。なんだかんだいって、夫は妻の尻に敷かれるのが一番安泰な関係なのかもしれませんなぁ。。。。ねぇ、皆さん。あ、そこの人、そんなに頷かなくても。。。

目的化した政権交代は「屎穢」に過ぎず=世説新語

世説新語(明治書院「新書漢文大系21」)シリーズから、今回は「殷浩」(インコウ)の逸話を取り上げます。期せずして(?)、問題にした言葉はいずれもお下劣なものとなってしまいました。ご容赦ください。気になるお方は鼻をつまみながらお読みくださいませ。

人、殷中軍に問うもの有り、何を以て将に位を得んとして棺器を夢み、将に財を得んとしてア)屎穢を夢みるや、と。殷曰わく、官は本是れ1)シュウフ、将に得んとして、棺屍を夢みる所以なり。財は本是れ2)フンド、将に得んとして、穢汙(オ)を夢みる所以なり、と。時人以て名通と為す。(文学篇49)

1)「シュウフ」=臭腐。腐臭と同義。腐ったにおい。いやなもの。汚物。

2)「フンド」=糞土。きたない土。「糞」は「くそ、ばば」。糞土之牆不可杇(フンドのショウはぬるべからず=やる気のないものに教化は無理)。

ア)「屎穢」=シワイ。シアイもありか。「屎」=「糞」。屎尿(シニョウ)=糞尿(フンニョウ)。「穢」の読みは通常、「ワイ」ですが「アイ」の慣用読みもあり。さらに呉音では「エ」で、穢土(エド)、厭離穢土(オンリエド)がある。訓読みでは「けがらわしい」「けがれる」。穢草(ワイソウ=雑草)、穢濁(ワイダク=人と人汚れた関係)、穢徳(ワイトク=悪徳)、穢史(ワイシ=事実を歪曲した歴史、とくに魏書を指す)。

【解釈】 ある人が殷中軍に尋ねた。「どうして官位を得ようとするときは棺桶の夢を見て、財産を得ようとするときには糞尿の夢を見るのでしょうか」。殷は答えた。「官位はもともと腐ったものだ。だからそれを得ようというときには棺桶や死体の夢を見る。財産はもともと糞土のようなものだ。だからそれを得ようというときは汚物の夢を見るのだ」。当時の人々は見事な解釈だともてはやした。

明治書院によると、殷浩(?~356)は、「桓温が強大な軍事力を背景にして東晋王朝での存在感を増しつつあったので、これを抑止するために会稽王司馬が重用した人物。司馬(シバイク)の庇護を得て、永和九年(353)に中軍将軍として華北遠征を行ったが大敗し、桓温の上疏によって罷免され庶人にまで落とされた」とあります。

この際、彼は司馬を恨み、「人を百尺の楼上に箸(お)き、梯を儋(にな)いて将(も)ち去れり(人を百尺もの楼上にのぼらせておいて、梯子をかついで持って行くとは)」と嘆かせた逸話が世説新語「黜免篇5」にあります。彼は桓温を牽制するためにいいように使われ、最後は孤立させられたのです。

俗に言う「梯子を外す」。美味しいことを言って、梯子を使わないと上れない高い場所に誘き出した後、梯子を外して二度と下りられないようにする。その時、「嗚呼、やられたあ」と相手の思惑に気づいても後の祭り。孤り浮いている自分がいる。裸の王様であったことに初めて思いを致すのです。

民主党政権、鳩山首相がそうならないことを祈念しております。小沢一郎が仕掛けた「梯子」は巧妙かもしれません。否、総選挙の時に「政権交代」という甘い言葉につられて、投票した有権者こそ梯子を外された主役だったら洒落になりませんね。投票して民主党という巨象(虚像?)が誕まれた。そこまで大きくなったことには若干の戸惑いを覚えたものの、「ま、自民よりはいいっか」と思ったはず。

しかしというか矢張りというか、所詮、巨象は寄せ集め集団です。一枚岩どころか、あちこちに亀裂があっていつどんな所から頽れるやもしれぬほど脆いのです。「群盲の象を撫づ」という諺がありますが、どこを触るか、その場所によって形や言っていることが全然違う。あまりにも大きい象だからです。国民は群盲であってはならないと思いますが…。

ところが、有権者、国民にはもう選択肢がないのです。梯子を外されたのかもしれないのです。現時点ではどうあれ、民主党にこの国の行く末を委ねるしか道はないのです。

でも、ご安心あれ、梯子は何も人から手渡されるだけではないのだ。本当にこんなに高いところから降りたいと思ったら、自分で作ればいいのですよ。かなり高い位置にいるからもしかしたら時間はかかるかもしれないが、じっくり民主党の、小沢一郎の出方を見定めながら、お手製の梯子を用意すればいい。だからこそ、政治にもっと関心を持って是々非々で批判をし、選挙のときにはみんなが投票に言って民意を示す。それが言わば梯子。みんなで作ったものであればあるほど、梯子は頑丈だ。政治を動かすし、政治は変わる、国は変わる。この前の選挙はまだまだ投票率が低い。政治家の奴らに簡単に外されてしまわれる「脆い梯子」たり得てしまうのでしょう。

さて、殷浩の「名通」です。お下劣なもののオンパレードで人々の「慾」を譬えている。出世と金。どちらも汚いもので欲しいと思った瞬間、夢に見てその本質がさらけ出される。いずれにせよ両者とも求めるものではないのでしょう。いわば黙っていても、求めなくてもちゃんとやれば結果として付いてくるもの。かの政権交代も求めなければできなかったのでしょうが、求めた時点では「汚物」でしかない。国民は政権交代を望んだわけじゃない。当の政治家の奴らが勝手に虚像を作っただけ。目的化しただけ。本当に結果が付いてくる真の政権交代はまだまだ先のことなのでしょう。求めているうちはダメですよ。

出世したらうまい酒、出世できなけりゃまずい酒?=世説新語

「世説新語」(明治書院「新書漢文大系21」)シリーズから、本日は「桓温」の二回目です。今回の逸話も“主役”は桓温というより寧ろ、酒好きで駄洒落好きな部下のお話です。冒頭の主簿とは官名で、記録や文書をつかさどり、漢代以後、各官庁におかれました。

桓公に主簿の善く酒をア)つもの有り。酒有らば輒ち先ず嘗しむ。好き者は青州の従事と謂い、悪しき者は平原の督郵と謂う。青州に斉郡有り、平原に鬲県(カクケン)有り。従事はイ)に到るを言い、督郵は鬲上(カクジョウ)に在りてウ)まるを言う。(術解篇9)

ア)「別つ」=わか・つ。表外訓み。区別すること。

イ)「臍」=ほぞ。へそのこと。音読みの「セイ」でも正解。後悔噬臍(コウカイゼイセイ=後の祭り)、臍下丹田(セイカタンデン=勇気凜凜)、固臍(ほぞをかたむ=決心)、臍帯(セイタイ=臍の緒)。

ウ)「住まる」=とど・まる。表外訓み。「とどまる」はほかに、「停まる、止まる、頓まる、淹まる、渟まる、紮まる、逗まる、駐まる」。「住」には「すまい」の訓みもある。


【解釈】 桓公(桓温)の部下によく利き酒をする主簿がいた。酒があるといつもまず彼に味をみさせた。彼は好い酒だと「青州の従事です」と言い、悪い酒だと「平原の督郵です」と言った。青州には斉郡があり、平原には鬲県がある。従事とは臍(斉)までとどくことを言い、督郵とは膈(鬲)にとどまることを言うのである。

明治書院によると、「これは洒落を利かした言葉遊び」とあります。すなわち、「斉」は「臍」に、「鬲」は「膈」に通じて、好い酒は臍までしみわたり(=好き者は青州の従事と謂い、従事は臍に到るを言い)、粗悪な酒は膈膜のあたりでとどまってしまう(=悪しき者は平原の督郵と謂い、督郵は鬲上に在りて住まるを言う)ことを、それぞれ地名に引っ掛けているのです。

「従事」「督郵」ともに官名。「従事」は「漢代から五代まで、刺史(州の長官)を助けた」、「督郵」は「郡守(郡の長官)の補佐役で、所属する各県を巡視して監督する役。漢代から唐代まで置かれた」。官職の位的には「従事」の方が「督郵」より上です。だから、出世コースとしてみると、「督郵」までしか上がれないから「悪い酒」、「従事」まで上がれるから「酔い酒」ということ。

逆からみると、美味い酒を飲んだ時、五臓六腑(五臓=心・肺・脾・肝・腎、六腑=大腸・小腸・胃・胆・膀胱・三焦)に染みわたるという言葉があります。主に膈膜より下にあるのが五臓六腑で、その中心が臍(=出世)。まずい酒は体全体に行き届かず、悪酔いする(=出世せず)ということでしょう。

何だか今一つ腑にも落ちませんが、ほぼ下戸である迂生からすれば、「だから何」という落ちです。本日は短めであまり面白くないですな。残念。

子猿を追い掛ける母猿の「断腸の思い」=世説新語

主に三国時代や晋代の人物の逸話を玩わう「世説新語」(明治書院「新書漢文大系21」)シリーズも残すところ、あと数回でしょうか。もうしばらくだけお付き合いください。本日は「桓温」(カンオン)の逸話。といっても、“主役”は別にいて、直接桓温の言動がどうのこうのではありません。今回と次回の二回シリーズで。まずは、「断腸」(腸を断つ)の出典となった逸話から。冒頭にある「三峡」というのは長江(揚子江)中流の難所のこと。辺りは山深く、悲しげな声で鳴く猿が多い所です。

桓公蜀に入り、三峡中に至るに、部伍の中に猨子を得る者有り。其の母岸に縁りて1)アイゴウし、行くこと百余里にして去らず。遂にア)りて船に上り、至れば便即ち絶ゆ。其の腹中を破り視れば、イ)皆ウ)寸寸に絶えたり。公之を聞きて、怒り、命じて其の人をエ)けしむ。(黜免篇2)

1)「アイゴウ」=哀号。かなしみ、泣きさけぶこと。哀叫(アイキョウ)ともいう。哀矜(アイキョウ)なら、「同情する、不憫に思う」という意。

ア)「跳り」=おど・り。「跳る」は「おどる」。表外訓みです。はねること、おどりあがること。跳梁跋扈(チョウリョウバッコ)という基本四字熟語があります。跳踉(チョウリョウ=ちょろちょろとはねまわる、足が乱れてよろめく)は意味が微妙に違うので要注意。跳丸(チョウガン=月日が過ぎるのが早い)、跳沫(チョウマツ=水しぶきが跳ねる)、跳盪(チョウトウ=敵のすきを見ておどり出し、敵陣を攻撃して打ち負かすこと)。

イ)「腸」=はらわた。表外訓み。五臓六腑の一つ。「わた」ともいう。腸肚(チョウト=心の中)は必須です。

ウ)「寸寸」=ずたずた。スンスンと読んでもOK。寸寸断裂(スンスンダンレツ=ずたずたに引き裂くこと)。

エ)「黜け」=しりぞ・け。「黜ける」は「しりぞける」。退ける、罷免する。音読みは「チュツ」。篇名にあるように「黜免」(チュツメン)=黜棄(チュツキ)=黜斥(チュツセキ)=黜放(チュツホウ)=黜廃(チュツハイ)=黜遣(チュツケン)はいずれも、官職を外し外へしりぞけること、免職すること。黜遠(チュツエン=遠くに追いやる)、黜責(チュツセキ=しりぞけて責める)、黜陟(チュツチョク=功績のないものをしりそけ、功績のある者を昇官させる)=黜升(チュツショウ)、黜罰(チュツバツ=無能の役人を押し退けて罰する)、黜否(チュツヒ=無能の者をしりぞける)。「しりぞける」はほかに、「斥ける、屛ける、却ける、卻ける、擯ける、貶ける、鐫ける、闢ける、蠖ける、逡ける」など。

【解釈】 桓公(桓温)が蜀に攻め入り、三峡までやってくると、部隊の中に、子猿をつかまえた者がいた。その母猿が岸を伝いながら悲しげに叫び、百里あまり行っても、まだ立ち去ろうとしない。とうとう船に飛び込んでくると、そのまま息が絶えた。その腹を裂いてみると、腸がずたずたにちぎれていた。公はこの話を聞いて怒り、その男を罷免させた。

所謂「断腸の思い」として知られる故事ですね。

明治書院によると、桓温(312~373)は東晋の軍隊を掌握し、穆帝の永和三年(347)、蜀に進攻して成漢国を滅ぼし、その地位を確固たるものとすることに成功し、「この逸話はその蜀進攻の折のものであろう」とあります。長江(揚子江)の三峡は、古来猿が多くいたらしく、その鳴き声が旅愁を一層掻き立て、詩人たちがしばしば詩の題材としています。その代表格として最も人口に膾炙しているのが李白の「早に白帝城を発す」(七言絶句)であろう、と紹介しています。

朝辞白帝彩雲間   朝に辞す白帝彩雲の間
千里江陵一日還   千里の江陵 一日にして還る
両岸□□啼不住   両岸のエンセイ 啼き住まず
軽舟已過万重山   軽舟 已に過ぐ 万重の山

この詩のpunch-lineとも言うべき「エンセイ」を一応問題にしました。簡単ですね。正解は「猿声」。

解釈は石川忠久氏の「漢詩鑑賞事典」(講談社学術文庫、P189~192)に拠りましょう。

朝早く朝焼けの雲のたなびく白帝城に別れを告げて、
三峡を下ると、千里もの距離がある江陵に、たった一日で着いてしまう。
切り立つ両岸では、群れを作す猿の鳴き声が絶え間なく続いている。その鳴き声が続いているうちに、
私の乗った小船は、幾重にも重なった山々の間を通り抜けて行く。

その「鑑賞」によると、「古来李白の傑作とされ、清の王士禎(オウシテイ)は唐代七絶の随一と称している。…(中略)…第三句、この詩の大きなポイントがここにある。それは猿のなき声である。…中国では猿の声を聞くと、悲しくて腸が断ち切れるというような表現の詩が多くみうけられる。謝霊運の詩に『噭噭(キョウキョウ)として夜猿啼く』という句があり、噭噭という猿のなき声の形容からみても、キーッ、ケォーッとつんざくようななき声がわかろう。日本の猿のキャッキャッというなき方とは違うようである。この猿の声が両岸のこだまを呼び、蜀の地よサヨナラという郷愁や感傷をよびおこしている。つまり、ここから先は中国の中心部へ出ていくことへの感傷が、猿声によって効果をあげている」と解説されています。

続けて同書の「補説」には、「猿が悲しい動物の例証として、『断腸』の語がある。『断腸』とは腸(はらわた)がちぎれるほど悲しむことをいう。『世説新語』黜免篇からでた故事成語である。それによると、『桓温将軍が三峡にさしかかった時、部下の一人が子猿を捕らえた。母猿は岸で悲しげになき、百余里もついて離れず、最後には舟の上に飛びこみ、そのまま息たえた。その腹をさいてみると、腸はズタズタに断ち切れていた』とある」。

 「なお、日本の俳句にもこの詩に着想を得たと思われるものがある」として榎本其角の「声かれて猿の歯白し峰の月」を載せています。

明治書院によると、「李白の詩は、桓温が蜀に進攻してから400年ほど後の、唐の乾元二年(759)頃に作られたものと推定されるが、この時点ではまだ三峡の両岸に猿が鳴きやまず、かしましいほどであったことがわかる。しかしながら現在は、種々の環境の変化からか、その猿声を耳にすることは殆どない」とあります。

肝心の桓温ですが、「この蜀進攻の後、征西大将軍に任ぜられ、永和十二年にはかつての晋の都であった洛陽を奪回して更に自己の地位を強固なものとした。そして、帝位にあった司馬奕を廃位に追い込んで、かつて自分を牽制しようとした司馬(イク)を簡文帝として即位させ、やがて自らが東晋王朝の帝位を奪うことを企図したが、果たさず、病死した」(明治書院P130)と結んでいます。

蛇足ですが、どうして死んだ母猿の腹を裂いてみたのでしょうかね?不審死として行う司法解剖じゃあるまいしね。明らかに外見上、特異な死であったのでしょうか。あるいは母猿が百余里も追いかけてきたその執念に対する畏敬の念に近いものがそうさせたのか。子猿を捕らえたという部下の話を聞いて、桓温が即座に左遷したのも、そうした執念に起因する「祟り」を恐れたからかもしれません。「断腸の思い」とはことほど左様に恐ろしいものかもしれません。ちなみに、「普天間」移設問題で社民党の福島瑞穂が啖呵を切って見せた「重大な決意」とは、この母猿の「断腸の思い」とは似て非なるものですがね…。

言葉の多寡は人物度量の裏返し=世説新語

「世説新語」(明治書院「新書漢文大系21」)の王献之(344~388、字は子敬)シリーズは二回目です。三人の兄弟の中で誰がどうして優れているのか?人物月旦のお話です。

王黄門兄弟三人、俱に謝公に詣る。子猷・子重は多く俗事を説き、子敬は1)カンオンのみ。既に出ずるや、坐客謝公に問う、ア)の三賢イ)れかウ)る、と。謝公曰わく、小者最も勝る、と。客曰わく、何を以てか之を知る、と。謝公曰わく、2)キツジンの辞は寡なく、3)ソウジンの辞は多し。此を推して之を知る、と。(品藻篇74)

1)「カンオン」=寒温。寒さと温かさのことで、転じて、時候の挨拶のこと。寒暄(カンケン)ともいうのでこちらも要注意。寒暄を叙す。「カンオン」は桓温、翰音、感温ではない。

2)「キツジン」=吉人。よい人、立派な人。「吉」の読みが「キチ」でなく「キツ」であることに注意。

3)「ソウジン」=躁人。騒がしく落ち着きのない人、おしゃべり。「躁ぐ」は「さわ・ぐ」「さわ・がしい」の訓みがあり。「噪」「譟」もほぼ同義。浮躁(フソウ=落ち着きがない)、躁急(ソウキュウ=気短でせっかち)、躁競(ソウキョウ=地位や財産ばかり気にすること)、躁擾(ソウジョウ=いらだち騒ぐ)、躁進(高い位を求めてあくせくする)、躁然(ソウゼン=落ち着きなくさわがしいさま)。

ア)「向の」=さき・の。表外訓み。漢文訓読の副詞用法です。

イ)「孰れ」=いず・れ。二つ以上ある物・場所などから一つを選ぶときに使う語。どちら、どれ、どこ。音読みは「ジュク」ですが熟語は見当たりません(熟で置き換えるケースはある、熟視=孰視)が、漢文訓読用法ならば、孰与(いずれぞ=孰若、どちらであろうか)。

ウ)「愈る」=まさ・る。比較してみて、他の者を越えている、また、そのさま。「いよいよ」「いえる」という訓みもあり。音読みは「ユ」。全愈(ゼンユ=全癒)、兪兪(ユユ=憂えるさま)。「いよいよ」と訓む場合は、これ一字、もしくは「愈愈(愈々)」も。同義は「弥」。


【解釈】 王黄門兄弟三人がそろって謝公(謝安)を訪問した。子猷(王徽之)と子重(王操之)は頻りに世間話をしていたが、子敬(王献之)はただ時候の挨拶をするだけだった。彼らが退出したあとで、その座にいた客が謝公にたずねた。「さきほどの三人のお方の中で誰が優れていますか」。謝公が言った。「小さいのが一番すぐれている」。客が言った。「どうしてそれが分かりますか」。謝公が言った。「<吉人の辞は寡なく、躁人の辞は多し>という。それから推してわかることだ」。

王黄門は王徽之のこと、すなわち王羲之の第五子。操子は第六子、そして王献之は第七子です。ぺちゃぺちゃと世間話を続ける王徽之・操子の上二人に対して、寡黙に振る舞い、時候の挨拶に終始する最年少の王献之。歴戦の猛者・謝安の目からみると、喧しさ、落ち付きのなさから受ける人物の器は信用できないようです。沈黙こそが「金」ということでしょうか。必要最小限の情報しか面に出さずに、何考えているか分からないという不気味さがあると言った方がいいかもしれません。でも、それがすべてを支配するケースがある。ある意味駆け引きでしょう。

謝公の台詞にある「吉人の辞は寡なく、躁人の辞は多し」は、「易経」(繋辞下伝)にある言葉です。人の言葉の多寡に関する心理学というか行動学の分析です。その前には「まさに叛(そむ)かんとする者は、その辞慙じ、中心疑う者は、その辞枝(わか)る」とあります。すなわち、他人を欺いて負こうとしている人は心の中に疾しさがあるので、その言葉も恥じらいがちになるのです。また、心中に疑念を持っている場合は、言葉があれこれと出てくるものの辻褄が合わないところが出てくる。したがって、言葉が少ないということは心に疾しいことがない裏返しであり、口数が多くなるということは軽率の毀りを免れないのです。

易経は続けて「善を誣(し)うるの人は、その辞游し、その守を失う者は、その辞屈す」とあります。善人をだまそうとすれば、言葉は浮ついたものになる。心の拠り所を失えば、言葉に自信が持てないのですぐにやり込められてしまうのです。

易経の言葉はそのまま民主党、鳩山首相に当て嵌まるのではないでしょうか。2009年暮れのいま、民主党連立政権の行方に早くも暗雲垂れこめると言っていいでしょう。自民党も事実上、脳死状態にあるので国民は選択肢を持たない状況です。したがって、民主党には「しっかりせい」と「喝」を入れるしかないのですが、小党の社民・国民新両党に揺さぶられている現状では、政党としては地に足がついていないため、ふらふらと発言の軸がぶれてしまう。頼りないことこの上ない。

易経の言葉を借りれば、そうなると、ゆくゆくは寡黙な“腹芸”政治家・小沢一郎が勝つということなのでしょうか?何を考えているか分からないだけに、それはかなり怖い気がしますが、いずれにせよ彼を中心に回って行くことだけは間違いない。水脹れの民主党は「最終形」ではないですからね。来年のいずれかの段階(参院選の前なのか後なのかは分からないが)で、小沢が“泣かず”に社民・国民新両党を斬って、その上で新たな勢力との政界「合従連衡」があるのは確実でしょう。

鳩山さん、後入れ先入れ…どっちが安全?=世説新語

「世説新語」(明治書院「新書漢文大系21」)は王羲之の七男であり、同じく五男の王子猷の弟である王献之(344~388、字は子敬)の逸話を、二回シリーズでお届けします。父の羲之に負けず劣らない能書家でした。父を「大王」、息子を「小王」、二人合わせて「二王」とか「羲献」ともいう。

太極殿始めて成る。王子敬、時に謝公の長史ア)り。謝、版を送り、王をして之に題せしむ。王、不平の色有り。信(使者)にイ)げて云う、門外に1)テキチャクす可し、と。謝、後に王を見て曰わく、之に題して殿に上(のぼ)さばウ)何若。昔、魏朝の韋誕の諸人も、亦自ら為せしなり、と。王曰わく、魏阼(ギソ)の長からざる所以なり、と。謝、以て名言と為す。(方正篇62)

1)「テキチャク」=擲著。投げ捨てておくこと。「著」を「チャク」と読むのは表外の音読みか。「着」の本字で「つく」「おく」の意で、動詞の後ろについて「動作が届くことを表す助動詞」。この場合は「擲つ」で門の外に放り投げてしまうことをいう。

ア)「為り」=た・り。表外訓み。「為る」は「た・る」。「である」と断定の漢文訓読用法。

イ)「語げて」=つ・げて。「語げる」は「つ・げる」、「語ぐ」は「つ・ぐ」。表外訓み。

ウ)「何若」=いかん。「どうであるか」「どのようであるか」「いかがであるか」と訳す。事実・様子・状態を問う疑問の意を表す漢文訓読用法の一つ。何如、何奈、如何、奈何、奈、云何、奚若、曷若、那何も「いかん」。いずれにせよ訓めるようにはしておきましょう。書くのはどれか一つ覚えておけばいいですから。

【解釈】 太極殿が落成した時、王子敬(王献之)は、謝公(謝安)の長史であった。謝公は版(題額の板)を送って、王に揮毫させようとした。王は不平を顔に表し、使者に告げて言った。「門の外へ投げ捨てておけ」。謝公は、のちに王子敬に会って言った。「題額を書いてから御殿にあげたらどうかね。昔、魏朝の韋誕たちもみなそうしたものだよ」。王は答えた。「それこそ、魏朝の命運が長続きしなかったゆえんです」。謝公は名言であると思った。

明治書院によれば、太極殿(タイキョクデン)は「天子が居住する正殿の名であり、これは魏の明帝曹叡が洛陽に設けた正殿を太極殿と名付けたことに由来する」とあります。いわば国家の象徴でしょうね。逸話の中で、「謝」とあるのは東晋の政治家「謝安」(320~385)のこと(後日取り上げます)。彼が王献之に言った言葉に出てくる「韋誕」(イタン、字は仲将、179~253)は、魏に仕えて光禄大夫となった人で、能書家として知られたという。世説新語「巧藝篇3」によれば、魏の明帝の時代に宮殿が建造された時、大工が誤って何も書いていない題額を先に殿上にあげてしまったため、足場をかけて韋誕をのぼらせ題額に書をしたためさせた。その心労により、韋誕の鬚や頭髪はことごとく真っ白になったという、とあります。

王献之の言辞はこの故事を踏まえています。「韋誕のような重臣に鬚や頭髪が真っ白になるほどの危険な目にあわせる横暴さこそが、魏の命運が長続きしなかった理由です」といい、同じように自分にも無理にでも太極殿の題額を書かせようとする、謝安らに対し、その横暴さがまた魏と同じように破滅への道につながりますよ、と警鐘を鳴らしたのです。

王献之がどうして題額に書きたくなかったのか、その背景はよくわかりません。韋誕の場合はすでに上げてしまった題額に、危ない体勢で書かせようとしたのですが、王献之は先に書いてから上げればいいというように大きな違いがあります。単に書きたくなかっただけなのかもしれません。書きたくない理由を韋誕の故事を挙げて断っていると言った方が正確でしょう。この私を危険な目に遭わせてよかろうはずがない。結構強気です。これに対して、この言葉について謝安が名言だとして納得したのもよく分からない。この辺りはなにか「阿吽の呼吸」的なものがあるのでしょう。

さて、本人の意に反して無理矢理何かをさせられる場合は気をつけなければなりません。

ここにきて民主党を中心とする連立三党政権の脆さが浮き彫りになっており、“巨象”である民主党が“蟻”の社民党、国民新党によっていいように弄ばれています。形振り構わない蟻たちの動きは奇異な感じがします。衆議院と参議院という「二院制の複雑なバランス」がこれを許しているわけですが、巨象と蟻というアンバランスさが逆転しているさまは、国民の眼には“まともな姿”としては映っていないのは明らか。

まさに、韋誕が無理矢理、白板の題額に字を書かされた故事と同じではないか。連立合意の段階からこうなることは見えていました。これは、いわば「白紙の題額」だ。大まかに骨らしきものだけを書いて、個別の詳細については、連立政権を発足させてから書いていけばいいということですよ。兎にも角にも「スタート」させることが是だった。

ところが字を書こうとしている鳩山首相の下からああでもないこうでもないとチャチャが入る。普天間だ、経済対策だ、郵政だ…肝心の鳩山首相は強力なリーダーシップを発揮するどころか、母親からの巨額贈与問題が検察捜査の最終局面にあり、自分の脛に傷が付こうとしていることもあって足元が覚束ない状態です。蟻どもはそこを突いている側面もあるわけですが、鳩山はあちこちに気を使うばかりでもはやみるみる「鬚や頭髪が真っ白」に。。。

そこで王献之の台詞です。「魏阼の長からざる所以なり」。巨象・民主政権は総選挙の圧勝から「長期政権」になると思われています。しかし、無理矢理、意に反した内容を題額に書こうとしていると、いつ足元を掬われても可笑しくないでしょう。しっかりとした字を書いてから題額を飾ろうよ。順番が逆だった。本人たちは「マニフェスト」という題額があるということを言うでしょうが、ここにきて「骨抜き」になろうとしている。子供手当て然り、高校無償化然り。。。

日本という国に壮麗なる「太極殿」、すなわち民主政権はできました。そこに飾るべく一見、立派な題額も飾った。。。まではいいが、肝心の字が書いていない。おいおい、それは約束違反じゃないか。国民は思い始めていますよ。蟻如きに振り回されている巨象がふらふらふらつく姿は見たくない。日米安保も経済対策も新年度予算ももっと毅然と地に足のついた対応を望む。政権を取るという御旗だけがあった政党だから致し方無いが、我々にはもう選択肢がない。

もっと国家の夢を語ってほしい。国民に発するメッセージは、国民自らが動けば手に入る夢でなければならない。何とかに描いた餅ではない。坐していてはダメで、動かなければ、いや動けば。。。そのためには大局観のある夢。

今年の漢字は大方の予想通り「新」となりましたが、新は旧なり。新しいことが是である時期は過ぎましたよ。つまり、「新」というのは常に、相対的な価値でしかない。次から次に「新」が生まれるから、「新」と言った時点ですでに「旧」だ。清新さ、新奇さだけをアピールすればよかった、痘痕も靨にしか見えない「蜜月の時期」はとうに終焉しているのです。

三党連立でも、四党でも五党でもなんでもいいが、実行可能な骨太の題額を書くべきではないか。そして堂々と太極殿に飾る。あとはそれを実行することに邁進すればいい。何匹の蟻が何を吼えようとも、ちくりと刺そうとも。。。しかしながら、影の総理・小沢一郎は来年の7月までは沈黙を守り通すのでしょうね。「本当の題額を書くのはそのあとでいい」…でしょうか?いわば「仮の題額」か。間に合うかなぁ…?王献之の台詞のようにならないことを祈ってはいますよ~。

身代わりになったのは兄か?弟か?=世説新語

「世説新語」(明治書院「新書漢文大系21」)の王徽之シリーズの四回目です。弟の王献之と同時に病に罹り、弟が先に逝く別れのシーン。涙なくしては読めません。

王子猷・子敬俱に病篤くして、子敬先ず亡ず。子猷左右に問う、何を以て都て消息を聞かざる。此れ已に喪せしならん、と。語る時了に悲しまず、便ち輿を索め来りて喪に奔るも、都て哭せず。子敬素より琴を好む。便ちア)ちに入りて、1)レイショウの上に坐し、子敬の琴を取りて弾ず。弦既に調わず。地に擲って云う、子敬、人と琴と俱に亡ぜり、と。因りて2)ドウゼツすることイ)久しく、月余にして亦卒す。(傷逝篇16)

1)「レイショウ」=霊牀。死者の亡骸を載せる台。霊座、霊床ともいう。「牀」は「ゆか」「とこ」。

2)「ドウゼツ」=慟絶。ひどく悲しんだ後に気絶すること。慟哭(ドウコク)、慟泣(ドウキュウ)は必須です。「慟」は「なげく」。

ア)「径ちに」=ただ・ちに。表外訓み。

イ)「良」=やや。表外訓み。「やや」はほかに、「漸、稍」。


【解釈】 王子猷(王徽之)と子敬(王献之)は共に病が重くなり、弟の子敬が先にさんくなった。子猷は左右に尋ねて言った。「どうして彼からの便りが一向に来ないのだろう。これはもう死んだのに違いない」。そう語った時、少しも悲しまず、すぐに輿を用意させ、喪にかけつけたが、ここでも全く哭泣しなかった。子敬は平素から琴を好んでいた。子猷はつかつかと部屋に入り、霊台の上にすわり、子敬の琴を取って弾いたが、絃の調べもととのわなかった。そこで琴を地に投げつけて言った。「子敬よ、人も琴もともに亡んでしまった」。そこで慟哭してしばらく気を失っていたが、彼も一か月ばかりして死んでしまった。

明治書院によると、王徽之、王献之(字は子敬)兄弟の死をめぐって、劉孝標の注釈は劉義慶の「幽明録」から次の話を紹介するとあります。すなわち、

太元年間に遠方からやってきた法師で、「人の寿命が終わろうとする時、もしその身代わりになろうと思う者がいれば、死者を生かすことができる」という者があったが、人々はその言葉を信じていなかった。王献之が病気で危篤になった時、兄の王徽之がその法師に「わたしの余命で弟を救ってほしい」と頼んだ。法師は、「そもそも死者の身代わりになるためには、身代わりになる者の寿命に余裕がなければなりません。しかし今あなたの寿命は尽きようとしていますので、死者の身代わりにはなれません」と答えた。王徽之もかねて背中に腫瘍を患っていたが、王献之が亡くなったと聞くと、胸を叩いて悲しみ、背中の腫瘍はつぶれてしまった。かくして法師の言葉は事実であったのである。

兄弟が相次いで病気になり、弟が先に死んだのですが、兄は自分の命と引き換えに弟を助けてほしいと願った。しかし、豈図らんや兄の寿命は極わずかだったためその願いは叶えられなかった。弟の後を追うようにして兄もこの世を去った。何とも言えないほど哀しい死のシーンです。逆に言うと、弟は兄の命を助けたのかもしれません。自分の余命をもって、兄を生き長らえさせた。それで弟が先に逝くことになった。しかし、その余命はそれほど長くはなかったため、兄の命も長続きせず、ほどなくして死んでしまった。…、こう考えても悲しすぎる。人の寿命、余命とは一体何なのか?天寿を全うするとはどういうことなのか?人生サドンデスですかねぇ…。

「泣斬馬謖」の怨みかはたまた口が滑ったか…=世説新語

「世説新語」(明治書院「新書漢文大系21」)の王徽之シリーズの三回目です。

郗司空(チシクウ)の北府を拝するや、王黄門、郗の門に詣り、拝して云う、1)オウヘンの2)ショウリャクは、其の長ずる所に非ず、と。ア)驟々之を詠じて已まず。郗倉、嘉賓に謂いて曰わく、公は今日拝す、子猷、言語殊に不遜なり。深くイ)す可からず、と。嘉賓曰わく、此は是れ陳寿が諸葛の評を作せるなり。人、汝が家を以て武侯に比す、復た何の言う所あらん、と。(排調篇44)

1)「オウヘン」=応変。臨機応変の略。事情の変化を受け止めてうまく物事を処理していくこと。意外に「応変」は浮かばないかも。

2)「ショウリャク」=将略。将軍としての軍事上の計画・はかりごと。鈔略、省略、抄掠、正暦などが同音異義語。

ア)「驟々」=しばしば。驟と一字で「しばしば」。「屢、亟、数」と同じですが、この訓みを文中で見つけるのは珍しいケース。通常は「にわかに」の訓読みで「シュウ」が音読み。驟雨(シュウウ=にわか雨)、驟至(シュウシ=急に雨が降ったり風が吹いたりする)、驟歩(シュウホ=はやあし)。

イ)「容す」=ゆる・す。表外訓み。「ゆるす」はほかに、「縦す、赦す、免す、聴す、予す、侑す、允す、准す、原す、宥す、恕す、放す、貰す、釈す」。」


【解釈】 郗司空(郗愔)が北府(徐州刺史)を拝命した時、王黄門(王徽之)が郗の家に来て、拝礼して言った。「臨機応変の将才は、この人の得意とするところではない」。王は何度も口ずさんだ。郗倉は兄の嘉賓(郗融)に言った。「父君(郗愔)は本日拝命なされたばかりなのに、子猷(王徽之)の言葉はまことに不遜です。決して許すことができません」。嘉賓は言った。「あれは陳寿が諸葛亮を批評したことばだ。人がお前の父親を武侯(諸葛亮)になぞらえてくれたのだから、何の文句を言うことがあろうぞ」。

此のお話で出てくる「北府」とは、徐州(後漢時代以来の府名で今の江蘇省の北西部)の刺史(地方長官)。王徽之が郗愔(チイン)を評した台詞、「応変の将略は、其の長ずる所に非ず」は、晋の陳寿(233~297)が「三国志」諸葛亮伝の結びに記したものです。このため、陳寿は後世の“諸葛亮フリーク”を敵に回すことになりました。

明治書院によりますと、「晋書」陳寿伝は、陳寿がこのような諸葛亮批判のコメントを残したのは、馬謖が「豈亭(ガイテイ)の戦い」で敗れ、いわゆる“泣いて馬謖を斬る”の故事として知られる通り諸葛亮によって処刑された時、馬謖の参軍であった陳寿の父も連座して髠刑(コンケイ=頭髪を剃る刑罰)に処されたため、それを怨んでのことと伝える、と記されています。続けて、「しかしこれは根も葉もない噂に過ぎず、陳寿は蜀出身の歴史家として『蜀諸葛亮集』を編集するなど、実際は深く諸葛亮に傾倒していたようである」とフォローしています。

王徽之のことよりも諸葛亮と陳寿の関係が主役になってしまいました。あの土井晩翠が「星落秋風五丈原」で長々と詠じ、後に「出師の表」を劉備の息子劉禅に奏上した名将・諸葛亮はやはり中国史における永遠なるヒーローなのかもしれませんな。「出師の表」は近々、このblogで詳細に取り上げますのでご期待ください。次回ももう少しだけ王徽之シリーズは続きます。

漢検受ける時は「論語」も忘れずに…=世説新語

「世説新語」(明治書院「新書漢文大系21」)の王徽之シリーズの二回目です。

王子猷、桓車騎の騎兵参軍と作る。桓問いて曰わく、卿は何の署ぞ、と。答えて曰わく、何の署なるかを知らず。時に馬を牽きて来るを見れば、是れ馬曹なるに似たり、と。桓又問う、官に幾馬有りや、と。答えて曰わく、馬を問わず、何に因って其の数を知らん、と。又問う、馬、此ごろ死すること多少ぞ、と。答えて曰わく、未だ生を知らず、ア)んぞ死を知らんや、と。(簡傲篇11)

ア)「焉んぞ」=いずく・んぞ。反語の副詞。どうして~か、いや~ではない。「いずくんぞ」はほかに、「安んぞ、寧んぞ、悪んぞ、曷んぞ、烏んぞ、胡んぞ」。書き問題への対応では「焉んぞ」を一つ覚えればいいが、これらはいずれも訓めるようにだけはしておきたいところです。

【解釈】 王子猷(王徽之)が桓車騎(桓沖)の騎兵参軍となった。桓車騎がたずねた。「君はどの部署にいるのだね」。王子猷は答えた。「どの部署かは知りません。ときどき馬を引いてくるのを見かけますから、馬をあつかうところのようです」。桓車騎はまたたずねた。「役所に馬は何頭いるのかね」。王子猷は答えた。「『馬を問わず』です。どうして数がわかりましょう」。またたずねた。「このごろ、馬は何頭ぐらい死んだね」。答えた。「『未だ生を知らず、焉んぞ死を知らんや』です」。

本日は漢字の学習と言うよりは、この王徽之のすっとぼけた言動を玩わいましょう。「馬を問わず」「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らんや」は、いずれも「論語」が出典であることにお気づきでしょうか?論語の学習は苟も漢字検定を受けようと志す人であるなら基本であり、必須の古典であることは論を待たないでしょうね。すべての篇を諳記せいとは申しませんが、ことあるごとに音読するなり、黙読するなり、座右において噛み締める必要はあります。なぜなら、論語で出てくる漢字や故事が本番でも出題されるからです。また、今回のようにのちのちの時代のさまざまな故事成語のベースとなる逸話が盛りだくさんだからです。したがって、本日は論語も味わいましょう。

前者は巻第五「郷党篇」が出典。

イ)ウ)けたり、子、朝より退きて曰わく、人をエ)えりや。馬を問わず。

イ)「廏」=うまや。馬を集めて飼葉を食わせるところ。音読みは「キュウ」。廏丁(キュウテイ=馬の飼育係)=廏吏(キュウリ)。厩、廐は異体字。「うまや」はほかに、「駅、厰、櫪、皁、馬屋」。

ウ)「焚け」=や・け。「焚ける」は「やける」。音読みは「フン」。「た・く」とも訓む。焚劫(フンキョウ=家を焼き、家財を盗む)=焚掠(フンリャク)、焚券(フンケン=借金の棒引き)、焚灼(フンシャク=ひどく暑いこと)、焚舟(フンシュウ=二度と戻らないという決意)、焚如(フンジョ=火事)、焚身(フンシン=わいろをもらって身を滅ぼすこと)、焚燼(フンジン=燃え残り)、焚溺(フンデキ=ひどい政治や戦乱のこと)、焚滅(フンメツ=焼き滅ぼす)、焚書坑儒(フンショコウジュ=秦の始皇帝が採った復古的な書物を焼き儒者数百人を生き埋めにしたこと)。

エ)「傷え」=そこ(な)・え。「傷なう」は「傷なう」。表外訓み。「そこなう」は「毒なう、剏なう、害なう、戔なう、残なう、蠧なう、蠱なう、賊なう、銷なう」もある。

【解釈】 廏が火事で焼けた。孔子は朝廷からさがってきて、「人に怪我はなかったか」といい、馬のことは問われなかった。

後者は巻第六「先進篇」が出典。

季路、鬼神にオ)えんことを問う。子の曰わく、未だ人に事うること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん。曰わく、敢えて死を問う。曰わく、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。

オ)「事え」=つか・え。「事える」は「つかえる」。表外訓み。「つかえる」は「宦える」も。

【解釈】 季路が神霊に仕えることをおたずねした。孔子は言った「人に仕えることもできないのに、どうして神霊に仕えられよう」。「恐れ入りますが死のことをおたずねします」というと、今度は「生もわからないのに、どうして死がわかろう」。

王徽之が桓車騎の問いかけに対して、論語を引用して孔子然として答えているところに面白みがあります。なんでそんなつまらないことをお聞きになるのですか?とでも言いたいところをぐっと我慢して論語を持ち出す当意即妙ぶり。ただし、論語を知っていないとこのpunch-lineは分からない。笑えないということです。論語もしっかりと学習しましょう。弊blogでも折に触れて論語を題材とすることといたしましょう。

友達の家の前まで来てみたものの興が冷めたら遇わずに帰る=世説新語

世説新語(明治書院「新書漢文大系21」)は暫くの間、「王徽之(オウキシ)」シリーズを進めます。書家で有名な王羲之(オウギシ)の息子です。以前、王徽之が竹のことを「此君」と呼んだ逸話を紹介したことがあります(ここ)。


王子猷、山陰に居りしとき、夜大いに雪ふる。眠り覚めて、室を開き、命じて酒を酌ましむるに、四望1)コウゼンたり。因って起ちて2)ホウコウし、左思の招隠詩を詠じ、忽ち戴安道を憶う。時に戴は剡(セン)に在り。即便ち夜小船に乗りて之に就き、3)ケイシュクしてア)めて至る。門にイ)りてウ)まずして返る。人、其の故を問うに、王曰わく、吾本興に乗じて行き、興尽きて返る、何ぞ必ずしも戴を見んや、と。(任誕篇47)

1)「コウゼン」=皎然。白く明るいさま。ここは辺り一面の雪景色を指す。皎如ともいう。「皎」は「しろい」「きよい」。皎皎(コウコウ、キョウキョウ)、皎潔(コウケツ=態度が潔い)、皎月(コウゲツ=白く輝く月)、皎日(コウジツ=白く輝く太陽)。亢然、哄然、曠然、浩然、皓然、耿然、昂然、鏗然、公然が同音異義語ですが、とても微妙なものもあります。例えば、「皓然」はほぼ同義でしょう。

2)「ホウコウ」=彷徨。ふらふらとさまよいあるくこと。「彷」「徨」ともに「さまよ・う」と訓む。徘徊も同義。

3)「ケイシュク」=経宿。一泊して、ひと晩かかって。この場合の「経」は「へる」、「宿」は「一夜の泊り」を指す。

ア)「方めて」=はじ・めて。漢文訓読副詞用法の表外訓み。その時になってやっと。やっとのことで。「造めて、俶めて、剏めて」も「はじめて」。

イ)「造り」=いた・り。表外訓み。「造る」は「いたる」。造詣(ゾウケイ=学問の到達程度)、深造(シンゾウ=奥まで届く)。「曁る、詣る、格る、臻る、訖る、踵る、迄る」も「いたる」。

ウ)「前まず」=すす・まず。表外訓み。「前む」は「すすむ」。「漸む、廸む、迪む、陟む、駸む」も「すすむ」。


【解釈】 王子猷(王徽之)が山陰に居たとき、夜大雪が降った。眠りからさめて部屋の戸をあけ、酒を注がせたところ、外を見ると一面の銀世界である。そこで立ち上がってあたりをさまよいながら左思の「招隠詩」を詠じていたが、ふと戴安道(戴逵)のことを思い出した。当時、戴安道は剡にいたので、さっそく夜小船に乗って彼のもとへ出掛け、ひと晩かかってやっと到着した。門まで来ると内に入らずに引き返した。ある人がそのわけをたずねると王はいった。「私はもともと興に乗って出掛け、興が尽きるとともに帰ってきたのである。何も戴に会わねばならぬこともあるまい」。


中唐の詩人、賈島(779~843)の詩に「隠者を尋ねて遇わず」というのがあります。いわゆる「招隠詩」と呼ばれる「隠者訪問をテーマとする詩」で、古来、中国文学の大きなテーマの一つとなっています。隠者らしさ、隠逸の世界を追い求める中で、ついに「隠者を尋ねたが会えなかった」というテーマに到達。中唐以降、詩人は競ってこうしたテーマを詩に詠みました。

松下童子に問えば
言う師は薬を採りに去ると
只此の山中に存らん
雲深くして処を知らず

石川忠久氏の「漢詩鑑賞事典」(講談社学術文庫、P523~524)によると、「隠者訪問のテーマは中国文学の世界には古くからあり、六朝時代には、『招隠詩』というジャンルを形成した。左思(?~305?、例のブサメン詩人、ここ)のそれは特に名高い」とあって、その第一首を紹介しています。

杖策招隠士 荒塗横古今 巌穴無結構 丘中有鳴琴…(策を杖いて隠士を招=たず=ぬれば、荒れし塗=みち=は古今に横=ふさ=がれり、巌穴には結構=しつらえ=無きも、丘中には鳴琴有り)

石川氏によると、「すでに隠者を表面化から隠して、丘の一画から響く琴の音でその存在を示し、自然の中に溶けこんだ隠者の生き方を表すという手法をとっている」とあります。この詩は隠者に会えなかったというのではなく、山中の隠者の世界に自分も留まりたいという趣旨だとあります。

世説新語の王徽之の逸話もまさにこの「招隠詩」が眼目となっています。戴逵(字は安道)は、俗世を厭うて隠棲し、琴を弾じ書画を楽しむ隠逸の生活を剡渓(センケイ)の地で送った人物です。王徽之が左思の「招隠詩」を読んでいるうちに思い出したのが、その戴逵です。わざわざ一晩もかかる遠方まで船を繰り出して行ったのに、門の前で引き返す王徽之。戴逵のことを思い出して気分が独りでに盛り上がったから出掛けてみたものの、結局、その思いも門前で冷めたから会わずに帰るだけなのだ。またいつでも会えるじゃないか…。

極めてあっさりしていますが、人と人の付き合いはこうありたいという、ある意味で理想形とも言えるのではないでしょうか。ねちっこい、べったりした付き合いは疲れます。澹泊が一番。明治書院には「君子の交わりは淡きこと水の如し」という荘子「山水篇」の言葉が想起される佳話であろう、と記述しています。

例えば、古くからの友達は元気でいればそれでいい。信頼関係がベースに在るなら、たとえ毎日顔を合わせなくとも水のように当然あるものとしての「存在」を感じることができる。肝心な時に、本当に必要な時にこそ、その有り難さが分かるのが真の友人と言うことではないでしょうか。 A friend in need is friend indeed. 友達を尋ねて会わず―。こうした“お洒落な付き合い”のできる友人をたとえ一人でいいから持ちたいものです。そうした出会いこそが一生をかけても追い求めたいものですね。

王導を見習え!いつまでも「楚囚」じゃないぞ=世説新語

「世説新語」(明治書院「新書漢文大系」21)から、本日は「王導」(276~339)の三つの逸話を取り上げます。王導は西晋から東晋の宰相。瑯邪臨沂(ロウヤリンキ、現在の山東省臨沂県)王氏の一族。東晋の初代皇帝元帝となった瑯邪王司馬睿と共に江南の地に入り、建鄴に東晋王朝の基礎を築くに際して多大な功績があった人物です。元帝に「吾の蕭何(ショウカ=漢を建国した劉邦を補佐した功臣)なり」(「晋書」王導伝、「蒙求」巻上「王導公忠」)と言わしめたほどでした。

「王導」①

王丞相司空を拝するや、桓廷尉1)リョウケイを作し、2)カックンして杖をア)き、路辺に之を窺い、歎じて曰わく、人は阿竜超えたりと言う、阿竜故より自ら超えたり、と。覚えず台門に至る。(企羨篇1)

1)「リョウケイ」=両髻。耳の両脇を結んだ髪型。「髻」は「もとどり」「たぶさ」。

2)「カックン」=葛裙。粗末な葛でつくったスカート様のもすそ。「裙」は「も、もすそ」。「カックン」って言ったら、「膝かっくん」が浮かんじゃいますよねぇ~。

ア)「策き」=つ・き。「策く」は「つえつ・く」とも訓む。表外訓みですが聊か特殊か。「策」は「つえ」「ふみ」「みち」とも訓む。策杖(サクジョウ=つえ、つえをつく)。

【解釈】 王丞相(王導)が司空(三公の一つ、土木工事をつかさどる)を拝命した時、桓廷尉(桓彝)は髪を二つのもとどりに結い、葛布のはかまをつけて杖をつき、道端で彼の様子を窺うと、感嘆して言った。「人は阿竜(王導)のことを頭抜けた人物と言うが、なるほど阿竜は頭抜けているわい」。そして知らず知らずに役所の門までついていってしまった。

このエピソードに出てくる桓彝(カンイ)は王導と同じく元帝に仕えた軍人ですが、乞食風に変装してまでその為人を確かめ上げた王導には一目も二目も置いたようです。ただ、残念ながら、王導のどういった点が具体的に「阿竜超えたり」という根拠となったのかは不明です。例えば、次の逸話でしょうか?

「王導」②。元帝の信任が厚かったことを示すエピソードです。

元帝、正会に、王丞相を引いて御牀に登らしむ。王公固辞す。中宗之を引くことイ)彌々ウ)なり。王公曰わく、太陽をして万物とエ)を同じうせしむれば、臣下は何を以て3)センギョウせん。(寵礼篇1)

3)「センギョウ」=瞻仰。あおぎみること、あおぎたっとぶこと。「瞻」は「みる」「みあげる」。対義語は「瞰」(みおろす)。瞻望咨嗟(センボウシサ=欧陽脩の文が出典)は頻出四字熟語です。瞻前(センゼン=将来をよく考えること)、瞻慕(センボ=人を尊敬し慕うこと)。

イ)「彌々」=いよいよ。「弥」の旧字体。遠く伸びてもいつまでも程度が衰えない意。ますます。愈、逾が同義語。

ウ)「苦」=ねんごろ。表外訓みですが漸特殊か。「はなはだ」との訓みもあるので、こちらからの派生と思われます。「しつこい、しきりに」といった意味に近いでしょう。苦求(クキュウ=しつこく求める)、苦留(クリュウ=無理に引き留める)。

エ)「暉」=キ、ひかり。「暉」は「ひかり」。夕暉(セッキ=夕陽)、春暉(シュンキ=春の日、転じて子を育む親の恩)、寸草春暉(スンソウシュンキ)は必須です。

【解釈】 元帝(司馬睿)は、元旦の儀式の時、王丞相(王導)を促して、玉座にのぼらせようとした。王公(王導)は固く固辞したが、中宗(司馬睿)はますます熱心に促した。王公は言った。「もし太陽が万物と輝きをひとしくしたならば、臣下はどうして仰ぎ見ましょうぞ」。

正会とは「元正の嘉会の意味で、陰暦一月一日に臣下が参内して行われた儀式」のことです。

「王導」③。西晋時代から東晋王朝を起こす“俠気”の空気を伝えるとともに、王導が硬骨漢であることを示すエピソードです。周侯は周(シュウギ)で、王導と並んで元帝の股肱の臣とも言うべき人物。

過江の諸人、4)ビジツに至る毎に、輙ち相邀えて新亭に出で、オ)を藉きて飲宴す。周侯、5)チュウザにして歎じて曰わく、風景は殊ならざれども、正に自ら山河の異なる有り、と。皆相視て涙を流す。唯だ王丞相のみ愀然(シュウゼン=顔をしかめるさま)として色を変じて曰わく、当に共に力を王室にカ)せ、神州を克復すべし。何ぞ6)ソシュウと作りて相対するに至らんや、と。(言語篇31)

4)「ビジツ」=美日。晴れた日。

5)「チュウザ」=中坐。大勢の人が座っている中で。日本では「会合の途中で退席する」意ですが、ここは意味的には通らないでしょう。

6)「ソシュウ」=楚囚。とらわれた楚の人。転じて、とらわれて異郷にある人。この逸話の肝の言葉です。楚の鍾儀が晋にとらわれてもなお母国の冠をつけて母国を忘れなかったという故事があります。

オ)「卉」=くさ。草と同義。音読みは「キ」。草卉(ソウキ)、嘉卉(カキ)、花卉(カキ)。卉衣(キイ=草の繊維で織った衣服。夷狄の服装。)=卉服、卉裳ともいう。

カ)「勠せ」=あわ・せ。「勠せる」は「あわ・せる」。音読みは「リク」。勠力(リクリョク=力を合わせること)、戮力協心(リクリョクキョウシン)。「戮」も「あわせる」という意味あるが、こちらには「ころす」もある。戮殺(リクサツ)=殺戮(サツリク)。


【解釈】 江南の地に移って来た人々は、うららかな日になると連れだって新亭に出掛け、草の上で酒盛りをした。周侯は酒宴の半ばで嘆いて言った。「風の色、日の光は同じようだが、まさしく山河は異なっている」。皆顔を合わせて涙を流した。ところが王丞相だけは色をなして言った。「今は共に王室に力を尽くして、中原を回復しなければならないはずだ。どうして楚囚の真似をして顔を見合わせているばかりでよかろうか」。

明治書院によると、「楚囚」に関する「春秋左氏伝」成公九年に載る話を紹介しています。

 楚の鍾儀は晋に拿らえられていた。晋の景公が武器庫を見回った時、拘束された鍾儀を見て「あの楚の冠を被って縛られている者は誰であるか」と左右の者にたずねた。役人が「楚の囚人です」と答えたので、景公は縄を解かせて「楚で何の職にあったか」と聞くと、鍾儀は「音楽師です」と答えた。そこで景公が琴を弾かせたところ、鍾儀は楚の音楽を奏でたのである。

この話が基となって「楚囚」が、敵地にあっても郷里を忘れぬ望郷の人を指すようになったとあります。成語林によると、「楚囚其の冠を纓す」(ソシュウそのカンをエイす)という成句も文天祥「正気歌」にあると載っています。鍾儀は音楽を奏でるだけでなく、楚の冠を身につけていたのです。

ところが、王導が祖国を逃げ出して宴会の場で「楚囚」と用いたのは、故郷をただ懐かしみ、愁いに浸るだけでは何の解決にもならないと、いささかネガティブなニュアンスを醸しています。愛国心ですね。国を強く思う気持ち。国民として国のために何ができるか?戦乱の世に在っては命も惜しまない姿なんでしょうが、翻って現代社会で国民は国のために何ができるのか?

鳩山政権が早くも正念場を迎えています。国民との「蜜月」の期間はもうそろそろ終わりです。国民に希望を与え、国民を主体的に動かすための「夢」をそろそろ描きださないと、日本という国が世界の潮流の中で存在感を失い埋没してしまいかねませんよ。普天間基地移設問題などごときでごたごたを見せているのは情ない。もっと国の主体性を強く打ち出してほしい。日米安保なんてどうでもいいとは言わないが、こんなもんがアキレス腱である政権ならもういらないよ。アメリカの「楚囚」じゃないんだから。王導のように、もっと毅然とした態度を見せるべきではないでしょうか。

陶淵明の曾祖父は環境にやさしいアイデアマン=世説新語

「世説新語」(明治書院「新書漢文大系21」)シリーズは、西晋の時代から東晋へ。あの陶淵明大先生の曾祖父であられる「陶侃」(トウカン、259~334)を紹介します。

かの竹林の七賢の吝嗇王・王戎とは「対極の位置」にあると言ってもいい倹約家かつアイデアマンでした。冒頭の「検」(ケンレイ)という言葉は辞書に掲載がないですが、恐らく「検束」(ケンソク=行いを慎み、自分の身を引き締める)に近い意味でしょうか?

陶公、性検にして、事にア)む。荊州と作りし時、船官に勅して悉く1)キョボクセツを録せしめ、多少を限らず。咸此の意を解せず。後、正会にイ)値々積雪始めて晴れ、聴事の前除、雪後猶お湿う。是に於て悉くボクセツを用いて之を覆い、都て妨ぐる所無し。官、竹を用うれば、皆厚頭を録せしめ、之を積むこと山の如し。後、桓宣武蜀を伐ち、船を装するに、悉く以て釘と作す。又云う、嘗て所在の竹篙(チクコウ=たけざお)を発するに、一官長の根を連ねて之を取りしもの有り、仍って足に当つ。乃ち両階を超えて之を用う。(政事篇16)

1)「キョボクセツ」=鋸木屑。おがくず。熟字訓なら「大鋸屑」ですね。

ア)「勤む」=はげ・む。表外訓み。「つと・む」でも正解か?

イ)「値々」=たまたま。表外訓み。稍難問。「たまたま」は通常、「偶、適、遇」。

【解釈】 陶公(陶侃)は倹約家で、仕事熱心であった。荊州刺史であったとき、船役人に命じて、おがくずをその多少にかかわらず、すべて集めさせた。役人たちは、皆、その理由がわからなかった。その後、元旦の儀式の時に雪が積もってやっと晴れ上がったが、役所の前庭は雪のあとでまだ湿っていた。そこで、例のおがくずをそこにかぶせたので、万事滞りなく行われた。また、役所で竹を使うと、その竹の切り株を集めさせて、山のように積み重ねておいた。後に、桓宣武(桓温)が蜀を征伐した時、船を仕立てるのにこれらをすべて釘に用いた。また、ある時、所領の竹棹を徴発したところ、ある上役人が根ごと持ってきたので、それを棹の足にして使った。そこで陶公はその役人を二階級特進させたという。

大鋸屑も竹の切り株も竹の根っこも何も無駄にしない徹底ぶり。そして、そららをすべて別の物に有効利用する。ケチというよりは寧ろ、現代で言うところの「3R」。便ち、リデュース、リユース、リサイクルの走りですな。環境にやさしいばかりか、瞬時の判断力が軍事上すぐれた能力であると見られたのでしょうね。

その陶公ですが、明治書院によりますと、「名将として知られ、東晋の元帝に仕えて征南大将軍となり、封は長沙郡公を賜った」とあります。かなり軍事組織上出世したようですね。「蒙求」巻下には、「陶侃が亡き親のいいつけに従って酒量の限度をよく守った逸話が『陶侃酒限』として載る」と酒で身持ちを崩すことはなかった。そして彼の曾孫である陶淵明は名利を求めない隠者詩人でした。その血の源泉である曾祖父に対しては、淵明は大いに誇りに思っていたようで、その詩「命子(子に命=なづ=く)」では「桓桓たる長沙(=陶侃)、伊れ勲あり伊れ徳あり、天子 我(ここでは陶侃を指す)に疇(はか)りて、専ら南国を征す」と詠んでおり、曾祖父の経歴を激賞しています。

王衍夫婦と鳩山家を襲った「アトブツ」の問題=世説新語

本日の「世説新語」(明治書院「新書漢文大系21」)は「竹林の七賢」シリーズの番外篇ということで吝嗇家・王戎の従弟である「王衍」(字は夷甫、256~311)を取り上げます。

王夷甫(オウイホ)、ア)より玄遠を尚び、常に其の婦の1)タンダクをイ)み、口に未だ嘗て銭の字を言わず。婦、之を試みんと欲し、婢をして銭を以てウ)にエ)らし、行くことを得ざらしむ。夷甫晨に起きて、銭の行を閡(ト=閉)ざせるを見て、婢を呼びて曰わく、2)アトブツを挙却せよ、と。(規箴篇9)

1)「タンダク」=貪濁。仏教語では「トンダク」か。欲深く心がにごっていること。これは難問です。辞書には掲載がない(諸橋の大漢和辞典ならあるかも?見てみたい)。「貪」は「むさぼる」「よくばり」。熟語は多い。貪猾(タンカツ=貪獪、欲深くずるい)、貪枉(タンオウ=欲深く心が曲がっている)、貪鄙(タンピ=貪卑、欲深く心が卑しい)、貪戻(タンレイ=欲深く道理に負く)、貪吝(タンリン=貪悋、欲深くケチ)。

2)「アトブツ」=阿堵物。お金のこと。晋代の代名詞で「阿堵」(アト)と言えば、「これ、この、このもの」。俗語です。直接的に言うのを避ける、いわば忌み言葉です。ちなみに、「阿睹」(アト)は「ひとみ、眼」。

ア)「雅より」=もと・より。表外訓みですが稍難問。副詞用法。平素から、もともとの意。「つね」の訓みもあるので押さえておきましょう。本番で出るぞ。雅素(ガソ=つねづね、平生、平素)、雅故(ガコ=つねづね、もとから)などがこの意味での熟語。

イ)「嫉み」=にく・み。「嫉」は「にく・む」「ねた・む」「そね・む」「ねた・し」「ねた・ましい」など訓みが広範です。本文の場合、「ねたむ」でもよさそうですが意味が稍異なるような気がします。音読みは「シツ」。嫉妬(シット)、嫉視(シッシ)、嫉悪(シツアク=悪行をにくむ、シツオ=憎らしくてたまらない)。

ウ)「牀」=ショウ、ねどこ。牀几(ショウキ、ショウギ=寝台、ながいす)、牀上施牀(ショウジョウシショウ=屋上屋を架す)、牀蓐(牀褥ショウジョク=寝床)=牀席(ショウセキ)、牀前(ショウゼン=寝床の辺りのこと)、牀榻(ショウトウ=寝台、腰かけ)、牀頭(ショウトウ=寝床の辺り=牀辺ショウヘン)。下付きなら病牀(ビョウショウ)、胡牀(コショウ=床几)、筆牀(ヒッショウ=皿状の筆置き)、縄牀(ジョウショウ=縄張りのこしかけ)。

エ)「遶らし」=めぐ・らし。「遶る」は「めぐる」。ぐるりと取り囲むこと。「繞」と同義。音読みは「ジョウ、ニョウ」。囲遶(イジョウ、イニョウ)、遶行(ジョウコウ)。


【解釈】 王夷甫(王衍)はもとより玄妙幽遠な哲理を好み、日ごろ、妻の欲深いのを嫌がり、銭という言葉を口にすることがなかった。妻はこれを試してみようと思い、下女に命じて寝床のまわりに銭を敷き、歩けないようにさせた。夷甫は朝起き、銭で足の踏み場もないのをみると、下女に言った。「このものをすっかりかたずけろ」。

明治書院によりますと、「蒙求」巻上にも「王衍風鑒」として逸話が紹介されており、美貌で、神の如く物事の道理に聡かったことが窺える、とあります。

晋から六朝にかけての時期に、「阿堵」と似た言い方に「寧馨」(ネイケイ)があります。これも「このような」という意味。同書には、竹林の七賢の一人山濤が若き日の王衍と会って、その才能に感歎し、「何物の老嫗か寧馨の児を生む」といったことが「晋書」王衍伝などに記されており、この「寧馨」の用法がそれであることが記されています。今の蘇州語のnah-ang(そのような)のもとになることば。「寧馨児」はのち、「素晴らしい子供だ」と子供を褒める言葉に変化しました。

ま、それは扨措き、王衍の欲深い妻の仕業といったらあり得ないですね。「銭」嫌いである夫に「銭」という言葉を言わそうとして、寝静まった夫の寝床の周りを銭で囲ってしまう。妻は何を期待したのでしょう。「あ~銭だ~、邪魔だ~」とでも言わそうとしたのか、それとも「銭攻め」で夫が狂い死ぬことでも画策したのか?今ひとつ理解に苦しみますな~。夫婦仲は良くなかったと見ましたが。。。

しかし、その上を云ったのが当の王衍です。足の踏み場もないほどに散らばっている銭を見て「銭」とは死んでも口にせずに「阿堵物」と咄嗟の一言を吐く。これは諧謔のセンスたっぷりですね。金の亡者である妻の仕業であることを瞬時に見破っても、慌てることなく余裕綽綽の態度で当時の俗語を用いてさらりと躱している。その言葉が皮肉にも「銭」の代名詞ともなるのですから、後世の人も人が悪い。言ってみれば王衍夫婦の「夫婦喧嘩」を揶揄って楽しんでいるかのようです。今度からお金のことを「阿堵物」と言ってみませんか。

ところで、鳩山首相の偽装献金の構図の全貌が漸く明らかになってきました。なんとまあお母上からの贈与疑惑が持ち上がっており、総額8億円の「非課税子供手当て」などと揶揄する声も出ています。鳩山家の阿堵物はたんまりあって、それを子供の世代にどう付け替えるかのテクニックだったんですね。首相は自分の預かり知らないところで行なわれていたと言いますが、だからって非課税はないでしょう。贈与税や相続税に国民は苦しんでいるんですよ。鳩山首相が無傷であれば、同じような行為が国民の間に曼延することも懸念されるでしょう。きれいごと節税と脱税は似て非なるもの。課税額4億円もあれば何も事業仕分けで苦労しなくても簡単な事業なら財源が出ますよね。明らかになったのならきちんと修正申告しましょう。脱税の意図がないのであるなら。。。。それとも首相の座を擲ちますか?

政治と阿堵物の問題はご法度ですよ。清新なイメージだった政権交代にも暗雲が…。それにしても阿堵物は怖い怖い。女の次にですが怖い怖い。。。。?

吝嗇家を演じた?王戎の真の狙いとは…=世説新語

「世説新語」(明治書院「新書漢文大系21」)の「竹林の七賢」シリーズも最後の一人となりました。「王戎」の三つの逸話を紹介しましょう。一番目は勇敢な子供時代を描いていて微笑ましいのですが、次の二つは、絵に描いたような「守銭奴、吝嗇、しみったれ、ケチ」。この“ギャップ”をどう塡めたらいいのでしょうか?

魏の明帝、宣武場上に於て、虎の爪牙を断ち、百姓の之を観るをア)す。王戎七歳なるも、亦往きて看る。虎イ)をウ)いエ)に1)じてオ)え、其の声地を震す。観る者2)ヘキエキ3)テンプせざるは無し。戎4)タンゼンとして動ぜず、了に恐るる色無し。(雅量篇5)

1)「ヨじて」=攀じて。「攀じる」は「よ・じる」。腹をつけて体をそらして木や岩を登る。音読みは「ハン」。攀轅臥轍(ハンエンガテツ=任地を離れる地方長官に対し民衆が其の別れを惜しむこと)¬攀恋(ハンレン)=攀慕(ハンボ)、攀桂(ハンケイ=科挙合格、立身出世)、攀竜附鳳(ハンリョウフホウ=家来がすぐれた君主によって功績を立てること)。

2)「ヘキエキ」=辟易。横に避け、体を低めて退却するさま。のち、転じて閉口するという意の方が一般的になりました。

3)「テンプ」=顚仆。さかさにころげる。顚頓(テントン)ともいう。「顚」も「仆」も「たおれる」。「たおれる」はほかに、「斃れる、僵れる、殪れる、殪れる、沛れる、蹶れる」。

4)「タンゼン」=湛然。落ち着いて平然として。坦然、澹然、赧然、端然と区別しましょう。

ア)「縦す」=ゆる・す。表外訓み。「ほしいまま」「たとえ」も忘れずに。。。

イ)「間」=すき。これも表外訓み。間隙(カンゲキ)を想起して。。。

ウ)「承い」=うかが・い。またまた表外訓み。稍難問か。

エ)「欄」=おり。またまたまた表外訓み。欄牢(ランロウ=牛や馬を入れておくおり。馬小屋や牛小屋のこと)、牛欄(ギュウラン=牛小屋)。

オ)「吼え」=ほ・え。「吼える」は「ほ・える」。音読みは「ク、コウ」。吼号(コウゴウ=大声をあげて叫ぶ)、吼天氏(コウテンシ=風の別名)、吼怒(コウド=怒り大声で叫ぶ)、獅子吼(シシク=釈迦の説法)=獅吼(シク、シコウ)。「ほえる」はほかに「吠える、咆える、哮える、嘯える」。

【解釈】 魏の明帝(曹叡)は、宣武場で虎の爪を切らせ、人民に見物させた。時に王戎は七歳であったが、それを見に出かけた。虎はすきを窺い、おりによじ登って吠えたてたが、その声は地を揺るがすようであった。見物していた人々は、みなたじろいで倒れ伏したが、王戎は平然として落ち着き払い、少しも恐れる様子がなかった。

司徒王戎、既に貴くして且つ富めり。区宅4)ドウボク、5)コウデン水堆(スイタイ=粉ひき碓)の属、洛下に比無し。契疎(証文の整理)6)オウショウ、カ)に夫人と燭下にキ)を散じて算計す。(倹嗇篇3)

4)「ドウボク」=僮牧。召使いと牧童。「僮僕」とは少し意味が異なるので要注意。

5)「コウデン」=膏田。土地が肥えた田圃。肥田ヒデンともいう。

6)「オウショウ」=鞅掌。手一杯に仕事を受けていそがしいこと。「鞅」は「むながい」とも訓む。

カ)「毎に」=つね・に。表外訓み。

キ)「籌」=かずとり。数を数える時に用いる細長い竹製の棒。音読みは「チュウ」。籌算(チュウサン=かずとり、計画)、籌商(チュウショウ=集まって策を相談する)。

【解釈】 司徒王戎は身分が高くしかも金持ちであった。その所有する家屋敷・下男・牧童・ゆたかな田畑・粉ひき碓のたぐいは洛陽でならぶものがなかった。証文を整理する仕事が多く、いつも夫人と燭火の下で。かずとり棒を散乱させて計算していた。

王戎に好き李有り。常に之を売りて、人の其の種を得るを恐れ、恒に其のク)にケ)てり。(倹嗇4)

ク)「核」=さね。表外訓み。種のこと。核桃(カクトウ=クルミ、胡桃)。

ケ)「鑽て」=うが・て。「鑽つ」は「うが・つ」。錐などで穴をあけること。音読みは「サン」。鑽鑿(サンサク=あなをあける)、鑽灼(サンシャク=深く研究すること)、鑽燧(サンスイ=きりもみして火をおこす)、鑽味(サンミ=中まで入ってあじわう)、鑽礪(サンレイ=研鑽)=鑽摩サンマ、鑽研サンケン、鑽仰(サンギョウ=徳のある人を尊敬する)、鑽営(サンエイ=人にうまく取り入ること)。「きる」の訓みもある。

【解釈】 王戎のところにいい李の木があった。王戎はいつもこれを売っていたが、人がその種を手に入れるのを心配して、かならずその核に錐で穴をあけておいた。

冒頭にも書きましたが、七歳の王戎と大人の王戎のギャップに戸惑いを禁じ得ません。

明治書院の解説によります。

「王戎は、幼少の折から神童の誉れが高かった。雅量篇4には、七歳の王戎が道ばたに枝も折れんばかりに実をつけている李を見て、『木が道ばたにあるのに実がたくさんついている。これは苦い李に違いない』といい、周囲にいた子供が食べてみると本当にそうであったという逸話が載る」。

これは「道傍苦李」(ドウボウのクリ)という四字熟語にもなっています。人から見捨てられ、見向きもされないもののことです。「クリ」は「栗」ではないので念のため。「にがいすもも」です。

獰猛な虎にも動じなかった逸話に施された劉孝標の注によりますと、「虎を見ても平然としていた王戎少年の様子を明帝曹叡が見て、左右の者にその姓名を尋ねさせ、これを世にも珍しい子供だと思ったという記事が紹介されている」ともあります。

ところが、二番目と三番目の逸話に描かれている王戎は金持ちであるにもかかわらず、せこい生活ぶり。金貸しでもやっていたんでしょうか。夫人と一緒に蠟燭の火をともしながら夜遅くまで証文の整理に追われています。そして、苦い李に違いないと見破った王戎でしたが、自分の庭になっている甘い李はいい値段で売れました。ところが、種には穴をあけておいた。なぜなら、実を食べたあとで種を植えて李を栽培されるのがいやだったからでしょう。「せこっ」の一語に尽きますね。

解説によりますと、「王戎が吝嗇で、守銭奴的な性質を有していたことは『晋書』王戎伝にも記すところであり、当時からよく知られていた事実らしい」とあります。憖、竹林の七賢に名を連ねているだけに聊か違和感を覚えますね。浮き世離れした隠者のイメージからはあまりにも懸け離れている。むしろ、浮き世そのものではないですかね。どちらが本当の王戎なのでしょうか。

「雅量」というのは、上品な人柄、宏量という意味(大酒飲みもあるがここは取らない)。これに対し「倹嗇」(ケンショク)というのは、倹約して物惜しみすること、「倹吝」(ケンリン)とも言います。この両極端に位置すると言ってもいい二つの篇にそれぞれ逸話を残していることになります。詰まる所、どちらも王戎なのでしょう。

七歳にして明帝の覚えが目出度かったのはまさに神童、早熟だったのでしょうか。その彼が年を重ねると金に慢心していく。倹嗇篇にある九つの逸話のうち四つが王戎のものだとされます。竹林の七賢の中では最も若い彼は、阮籍や嵆康らと付き合う中で隠者の理想に近づいたはずです。ところが、先輩たちがこの世を去っていくのを目の当りにして変化していく。讒言に遭い心ならずも死んでいった人もいる。明哲保身という言葉を再び想起せざるを得ません。

もしかしたら王戎の吝嗇ぶりは自分の身を守るための武器だったのかも知れません。「佯狂」という言葉もありますが、吝嗇家を演じることでこの世を長らえることができた――。あくまで迂生の勝手な仮説ですが。。。。んでも、種に穴をあけて李を売るという、この合理的な発想はやはり隠者のイメージには合わないですね。どうせなら「種なし李」でも開発すればよかったのに。。。
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不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
言葉には過敏でありたい。
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2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
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