スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「繡簾銀簟」と「大巧若拙」=「碧眼録」で四字熟語・最終回

 本日は略一か月の長きにわたって続けてきました「碧巌録」の最終回ということにいたします。11世紀前半の中国・北宋時代の禅僧、雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)が厳選した古人の言行からの「百則」に、韻文の賛辞である「頌」を添えて禅の教科書となったものに、11世紀後半、さらに圜悟克勤(えんごかくごん)と弟子らが「垂示」「著語」「評唱」を加えたもの。難解窮まりないものでした。とても迂生では太刀打ちできない。

そこで、四字熟語を切り口にアプローチを試みました。その一端には触れることだけはできたと思います。漢検四字熟語辞典に載っているもの、そうでないもの、四字熟語にとどまらず故事成語、諺、言い伝えも数多くありました。意味はいいんです。そうした禅問答の雰囲気にいささかでも浸れただけで成果はあったと思います。四字熟語の奥深さも味わえたと思います。さまざまな古人の糟魄を味わう上で、四字熟語は効果的と言っていいでしょう。

 みなさんもお好きな作品を、四字熟語を通じて味わってみるという試みをされてはいかがですか?

 最後も気を抜かずにフィニッシュいたしましょう。本日は「繡簾銀簟」(シュウレンギンテン)と「大巧若拙」(タイコウジャクセツ)。


 まず、「第一〇〇則 巴陵の吹毛剣」の「本則」に対する「評唱」に次の一節があります。

 …佩びて龍宮に入りて歩むこと遅遅たり、繡簾銀簟何ぞ参差たる。即ち知らず、驪龍珠を失うを知るや知らずや…

 「佩びる」(お・びる)は「珠や刀を腰につける」。「は・く」ともいう。音読みは「ハイ」。「佩刀」「佩玉」「佩韋」(ハイイ)「佩環」「佩弦」(ハイゲン)「佩綬」(ハイジュ)「佩剣」「佩犢」(ハイトク=武事をやめて農業に従事すること、「犢」は「仔牛」)「佩服」(ハイフク=銘記、感謝)「佩韋佩弦」(ハイイハイゲン)「感佩」。

 「繡簾銀簟」は「刺繍で飾られたすだれと銀の敷物がきらびやかに並び連なるさま」。豪華絢爛の形容です。「繡」は「ぬいとり」、「簾」は「すだれ」、「簟」は「たかむしろ」。

 「驪龍珠を失う」は「驪龍玩珠」(リリョウガンシュ)で既出。


 続いて、「頌」の冒頭に次の件が見えます。

 【頌】 不平(いざこざ)を平(しず)めんと要(ほっ)して、〔細かきこと蚍蜉(あり)の若し。大丈夫の漢須是(すべか)らく恁麼(さよう)なるべし。〕大巧は拙なるが若し。〔声色(しょうしき)を動ぜず。身を蔵して影を露す。〕… 


 「蚍蜉」(ヒフとも読む)は「大蟻。微細なところまで食い込む鋭利なものの喩え」。「蚍」の一字で「おおあり」。身の程知らずに譬えることもある。「蚍蜉大樹を撼がす」(ヒフタイジュをうごかす)は「見識の狭い者が、身の程を知らずに、優れている人をみだらに批評する愚挙を戒める言葉」。

 「大巧若拙」(タイコウジャクセツ)は有名な「老子」に出てくる成句で「非常にすぐれた上手なものは、かえって、下手糞のようにみえるもの」。漢検四字熟語辞典によると、「このうえもなく巧みなものは一見稚拙に見える。本当に技量のあるものはかえって不器用に見える」。類義語に「大智不智」(ダイチフチ)、「大成若欠」(タイセイジャクケツ)、「大弁若訥」(タイベンジャクトツ)。いずれも「老子・四五章」に見えます。至芸は素人目には下手に見えるのです。含蓄のある深い言葉です。戒めとして肝に銘じましょう。

 最後のmixi日記転載四字熟語は次の通りです。

■「田園将蕪」(デンエンショウブ)


 田畑を耕す働き手がいないために、雑草が生い茂って田畑が荒れ果てていること。陶淵明の「帰去来辞」の「第一段」で「帰りなんいざ、田園将に蕪れなんとす 胡ぞ帰らざる」が見えます。「将蕪」は「勝負」「菖蒲」「踵武」「尚武」「韶舞」「韶武」「招撫」でないことに注意しましょう。「将(まさ)に蕪れなん」でございます。「荒蕪」(コウブ)、「蕪蔓」(ブマン)、「蕪昧」(ブマイ)、「蕪径」(ブケイ)、「蕪荒」(ブコウ)、「蕪雑」(ブザツ)、「蕪辞」(ブジ)、「蕪言」(ブゲン)、「蕪浅」(ブセン)、「蕪没」(ブボツ)、「蕪穢」(ブワイ)なども押さえておきましょう。

■「桃弧棘矢」(トウコキョクシ)


 災いを取り除くこと。「桃弧」は桃の木で作った弓、「棘矢」はいばらの木で作った弓。いずれも魔除け。出典は「春秋左氏伝・昭公四年」の「黒牡秬黍、以享司寒、其出之也、桃弧棘矢、以除其災、其出入」から。悪魔降伏の祈祷です。


■「騰蛟起鳳」(トウコウキホウ)


 才能が特別すぐれていること。「騰蛟」は天に躍りあがる蛟竜。「起鳳」は飛び立つ鳳凰。出典は王勃の「滕王閣序」の「騰蛟起鳳、孟学士之詞宗、紫電青霜、王将軍之武庫」から。「蛟」(みずち)も「鳳」(おおとり)も瑞祥の象徴。大きなうねりを感じさせるダイナミックな成句です。


■「道揆法守」(ドウキホウシュ)


 道理をもって物事をはかり定め、法度をみずから守ること。「揆」ははかる意。出典である「孟子・離婁・上」によると、「上に道もて揆ることなく、下に法もて守ることなく、朝(上の人)は道を信ぜず、工(下の人)は度(法度)を信ぜず、君子は義を犯し、小人は刑を犯して、国の存する所(あ)る者は幸なり」とある。上、人君は道理をもって判断することなく、下、家臣は法度をもって身を守ることなく、朝廷の役人は道義を信用しない。民間の工人(しょくにん)は法度を信用しない。上位にある君子は正義に叛き、位についていない庶民は刑罰を犯すようになり、それでもなお国家が滅亡せずにすむとすれば、それこそ全くの僥倖と言わねばならない(そんな都合の良いわけはないであろう)。つまり、「道揆」は上位者(上、朝、君子)に対して、「法守」は下位者(下、工、小人)に対してそれぞれ守られていないから守り通せと言った言葉なのです。「一揆」(イッキ)、「百揆」(ヒャッキ)、「揆度」(キタク)、「揆測」(キソク)などは案外盲点です、覚えましょう。コンパスを回して一回転させるようにはかるイメージで。。。


■「天覆地載」(テンプウチサイ)


 天地のように広くおおらかな心や仁徳のこと。天は上にあって万物を覆い、地は下にあって万物を載せるということから。出典は「中庸・三一章」(岩波文庫では17章)の「上は天時に律(のっと)り、下は水土に襲(よ)る。譬えば天地の持載せざることなく、覆(ふうとう)せざることなきが如し」から。上は天の季節のめぐりにのっとり、下は地上の山川風土のあり方に従われた。たとえば、大地がすべてのものもを載せ支え、天がすべてのものを覆いつくしているようなものだ。仲尼(孔子)の徳を称した言葉です。

 「覆」は、「翼覆嫗煦」(ヨクフウク)と同様に、「フク」でなく、この場合は「フウ(プウ)」と読むことに注意。「おおう」という意味の場合は「フウ、フ」(伏)。「覆蓋」(フウガイ)、「覆載」(フウサイ)、「覆蔽」(フウヘイ)、「覆路」(フウロ)、「覆盆子」(フウボンシ、いちご)、「覆育」(フイク、フウイク)。「くつがえす、くつがえる」の場合はもちろん「フク」。「覆車の戒め」が有名。


■「天保九如」(テンポウキュウジョ)


 人の長寿を祈る語。「天保」は詩経の小雅の篇名。この詩は、天子の長寿と幸せを祈るもので、詩中の句の中に「如」の字が九個(山・丘・岡・陸・川・三日月・太陽・南山・松柏の如く))あることからいう。「千秋万歳」(センシュウバンザイ)、「南山之寿」(ナンザンノジュ)が類義語。「キュウジョ」が「翕如」「救助」でないことに注意か。


■「道之以徳」(ドウシイトク)


 国民を指導するには道徳教育が重要であること。出典は「論語・為政」で「これを道びくに政を以てし、これを斉うるに刑を以てすれば、民免れて恥ずること無し。これを道びくに徳を以てし、これを斉うるに礼を以てすれば、恥ありて且つ格(ただ)し」。人民を小手先の政治で導き、刑罰で統制していくなら、人民は法網をすり抜けても恥と思わない。しかし、道徳で導き、礼(規範)で統制していくなら、道義的な羞恥心を持ってそのうえに正しいものとなるのだ。「道徳」の典拠となったくだりです。四字熟語学習の掉尾を飾るのは「道徳」ということにしましょう。擱筆。獲麟。。。除夜の鐘前に終わることができました。(mixi日記では2008年12月31日に書きました)
スポンサーサイト

「鐃鉤搭索」と「作爺下頷」=「碧巌録」で四字熟語

 本日の「碧巌録」は、「鐃鉤搭索」(ドウコウタッサク)と「作爺下頷」(サクヤカガン)。


 「第九八則 天平和尚の両錯」の「本則」に次の件が見えます。


【本則】 …一日(あるひ)、西院遥かに見て召して云く、「従漪」。〔鐃鉤搭索し了れり。〕平、頭を挙ぐ。〔著れり。両重の公案。〕西院云く、「錯」。…西院云く、「適来(いましがた)の這の両錯、是れ西院の錯か、是れ上座(そなた)の錯か」。〔前の箭は猶お軽きも後の箭は深し。〕平云く、「従の錯なり」。〔馬鞍橋(ばあんきょう)を錯り認めて、喚んで爺(おやじ)の下頷(したあご)と作す。恁麼(さよう)の似(ごと)き衲僧、千箇万箇(せんにんまんにん)を打殺すとも、什麼の罪か有らん。〕西院云く、「錯」。〔雪上に霜を加う。〕…

 「鐃鉤搭索」は難しい四字熟語で、当然ながら漢検四字熟語辞典には記載がありません。「がんじがらめにして身動きできなくすること」と岩波文庫の語釈にはありますがよく分かりません。「鐃」は「どら」。鐘に似ている小さな楽器で、じゃ~んと打ち鳴らす。「鉤」は「かぎ、L字型の物を引っ掛ける金具」。「鐃鉤」は「捕獲用の熊手」という解釈もあります。「搭」は「のせる、つける、あわせてくっつける」。「搭索」は辞書に見えない。

 「馬鞍橋」は一般には「驢鞍橋」(ロアンキョウ)と書き、「ロバの鞍のくらぼね」。

 「爺の下頷と作す」は文字通りの解釈は「おやじのしたあごだと思う」。前段の「馬鞍橋」を自分の父親のしたあごの骨と思い込んでしまった。つまり、物事の見分けも付かない愚か者のこと、また、間違いのこと。漢検四字熟語辞典には「阿爺下頷」(アヤカガン)として掲載されています。「阿爺」は「おとっつあん」。だいじなおとっつぁんの骨と馬の鞍骨の区別もつかんのかわれは?「下頷」(カガン)=「下顎」(カガク)。んなら、「下腮」(カサイ?)、「下顋」(カサイ?)、「下頤」(カイ?)もありでげすかね?辞書には見えませんでしたが…。そうか、すべて「したあご」と訓で訓めばOKだね。ん?「頤」はこれ一字で「したあご」か。なら、「下頤」はダブリですね。「頤を外す」(おとがいをかずす)のも「したあご」に決まっていますよね。「阿爺頤」か(でも、こんなことばないっすからね)。


★「嘲風哢月」(チョウフウロウゲツ)?「嘲風弄月」?、「嘯風弄月」??「嘯風哢月」???


 風や月を題材にして詩歌を作ること。「嘲風」は文章家が戯れに作った詩文を毀る語。しかし、いかなる辞書を見ても載っていない言葉。「哢月」は月を眺めて楽しむこと。これ簡単そうで書けといわれたら意外に難しいですよね。「嘲」は「あざける」で、「風を嘲る」というのは変だなぁと思ったら、こんな意味か。。。。「哢」の方も「さえずる」で「月に哢る」ということか。難しいな。覚えられない。「鳥哢」は鳥がさえずる、だけど「嘲弄」はあざけりからかうこと。口偏のあるなしで大違いだ。「弄月」と書いてしまいそうで要注意だ。

 ここで止めようかと思ったのですが、でもなんか変な四字熟語だ、なんとなく覚えにくい。あそうだ、「嘯風弄月」(ショウフウロウゲツ)とごっちゃになってしまうからだ。でもこっちは「弄月」だぞ。やっぱ変だ。。。あれれ、善く善く見ると漢検四字熟語辞典にも類義語として「嘲風弄月」となっているぞ。。。うむ、初めて気が付いた。誤植だ。でもどっちが正しいんだろう。風に嘯き、月を弄ぶ。だったら、風を嘲り、月を弄ぶでもいいじゃん。やはり「嘲風哢月」という四字熟語は変だ。どっちを書けばいいんだ、両方とも正解か、いやこの問題はきっと出ないぞ。。。物議を醸す。。。


★「枕戈待旦」(チンカタイタン)


 闘いの備えを怠らないこと。戈を枕にして眠り、朝になるのを待つ意。いつも戦場に身を曝しているので気が抜けない、おちおち熟睡なんてできやしないということ。「枕戈寝甲」(チンカシンコウ)という類義語もある。「干戈倥偬」(カンカコウソウ)も忘れずに。。。


★「椿萱並茂」(チンケンヘイモ)


 父と母とが共に健在なこと。「椿」は「椿寿」という言葉もあるように長寿の木で、父に譬える。一方、「萱」は通称わすれ草といい、「憂いを忘れる」ことに引っ掛けて、主婦である母のいる部屋(北の座敷)の前の庭に植える風習から、母に譬える。「二人並んで蕃茂(長生き)する」のが「並茂」。「椿庭萱堂」(チンテイケンドウ)の類義語があり。「萱堂」は母親のこと。「椿寿」のほかには、「大椿」(ダイチン)、「椿年」(チンネン)、「椿齢」(チンレイ)がある。「椿庭」(チンテイ)、「椿堂」(チンドウ)、「椿府」(チンフ)も父親のこと。

★「墜茵落溷」(ツイインラクコン)


 人には運不運があるということ。「茵」はしとね・敷物、「溷」はかわやの意。風に吹かれて散った花びらが、あるものは幸運なことに敷物の上に落ち、別のものは運悪くかわやに落ちるというアイロニカルなデスティニー。類義語に「運否天賦」(ウンプテンプ)。出典は「南史・列傳第四十七」で「人生如樹花同發、隨風而墮、自有拂簾幌墜于茵席之上、自有關籬牆落於糞溷之中。墜茵席者、殿下是也;落糞溷者、下官是也。貴賤雖複殊途、因果竟在何處。」生れ持った身分の違いが最大の「墜茵落溷」ということなのか?抗えないのか?運不運で片付けていいのか?


★「提耳面命」(テイジメンメイ)


 懇切に教え諭すことの譬え。耳に口を近づけ面と向かって教え諭す意。「提耳」は両方の耳を持って引っ張り上げる、「面命」は目の当たりに命ずる、面と向かって教え諭す。「耳を提して面(まのあたり)に命ず」と訓読する。「耳提面命」ともいう。出典は「詩経・大雅・抑」で「於乎小子、未知藏否、匪手攜之、言示之事。匪面命之、言提其耳、借曰未知、亦既抱子。民之靡盈、誰夙知而莫成」。しかし、本当に懇到と言っていいのか?昏倒ではないのか?


★「鉄樹開花」(テツジュカイカ) →「碧巌録」で既出

 物事の見込みがないこと。「鉄樹」は鉄でできた木、また、60年に1度、丁卯(ひのとう)の年だけに開花するといわれる木のこと。鉄の花はめったに咲かないことから、反語的にあり得ないことを言う。出典は中国南宋期の禅の歴史書である「五灯会元=ごとうえげん(20)」で「鉄樹開花、雄鶏生卵、七十二年、揺籃縄断。」四字熟語辞典には「雄鶏生卵」(ゆうけいせいらん)も類義語とあります。前後の文脈が読めないので分かりませんが、世にも珍しいことが起こったようです。七十二年が何なのか気になるが。。。


★「轍乱旗靡」(テツランキビ)


 軍隊などが敗走する形容。兵軍の轍の迹が乱れ軍旗が撓垂れる意。
「靡」はしおれる、しなだれる。出典は「春秋左氏伝・荘公一〇年」で「吾視其轍乱,望其旗靡」。


★「顚委勢峻」(テンイセイシュン)


 水源も末流もその勢いが激しく盛んなこと。源流から末流まで勢いが途切れず激しいこと。「顚」は頂のこと、「委」は末・終わりの意。「顚委」は源流と末流の意。「勢峻」は勢いがあって激しいこと。出典は、柳宗元の「鈷潭記」で「顚委勢峻,蕩撃益暴」。少し上に「突怒偃蹇」(トツドエンケン)も同じ出典で見えました。

「曲躬叉手」と「足恭諂詐」=「碧巌録」で四字熟語

 本日の「碧巌録」は、「曲躬叉手」(キョクキュウサシュ)と「足恭諂詐」(スウキョウテンサ)。

 「第九二則 世尊、一日座に陞る」の「頌」に対する「評唱」の最後に次の件があります。

 …僧、過(てわた)す。厳云く、「人を鈍置殺(こけ)にす」と。又た趙州に問う、「如何なるか是れ王、仙陀婆を索む」。州、禅床を下りて、曲躬叉手す。当時(そのとき)若し箇の仙陀婆有りて、世尊未だ座に陞らざる已前に透去(みぬ)かば、猶お較(たが)うも些子(わずか)なり。世尊更に座に陞り、便ち下り去る。已是に便(たより)を著(え)ずして了れり。那ぞ堪えん、文殊更に白槌するに。不妨(なかなか)に他の世尊の一上(ひとしきり)の提唱を鈍置(こけに)す。且て作麼生(いかなる)か是れ鈍置せる処。

 「曲躬叉手」は、「丁寧にお辞儀をするさま」。「躬」は「み=身」のことで、からだを弓状にまげるという意味もあります。「鞠躬」(キッキュウ)も体をかがめてお辞儀すること。「叉手」は「サシュ」または「サス」と読み、仏教語で「両手の指を組み合わせるさま」。ぶかぶかとお辞儀する時に単に両手を合わせるのではなくそれぞれの指同士も交差させているのです。


 「第九六則 趙州の三転語」の「頌」に対する「評唱」に次の件が見えます。

 …三祖の伝に云く、「二祖の妙法、世に伝わらず。頼(さいわい)に末後に依前のごとく他の当時雪に立つことを悟るに値う」と。所以に雪竇道く、「雪に立つこと如し未だ休めざれば、何人か雕偽せざらん」と。雪に立つこと若し未だ休めざれば、足恭諂詐の人皆な之に効い、一時に只だ雕偽を成さん、則ち是れ諂詐(へつらい)の徒なり。雪竇、「泥仏は水を渡らず」を頌すに、為什麼(なにゆえ)にか、却って這の因縁を引き来たりて用う。他参得して意根下に一星事も無く、浄「身+果」「身+果」地(きれいさっぱり)にして、方(はじ)めて頌し得ること此の如し。

 「値う」は「あう」。「遇う」の表外訓みです。

 「足恭諂詐」は「度を過ぎてうやうやしく、こびへつらい自分をいつわるさま」です。漢検四字熟語辞典には掲載されていません。ここでいう「足恭」は「論語・公冶長第五」の「巧言令色足恭」に出てくる有名な言葉。「巧言」は「言葉上手」、「令色」は「顔つきがいい」、「足恭」(スウキョウ、シュキョウとも)は「あまりにうやうやしいさま」。「足」を「スウ」と読むのが難しい。副詞の用法で「あまりにも…しすぎる、十二分すぎるほど…である」といった意味。

 「効い」は「ならい」と表外訓み。

 「一星事」は「働かすこと」。

 本日のmixi日記転載四字熟語は次の通りです。

★「徴羽之操」(チウノソウ)


 正しい音楽のこと。「徴羽」は古典音楽の階名である五音(音楽の音色、宮・商・角・徴・羽=順にド、レ、ミ、ソ、ラ)のうちの「ソ」と「ラ」の二つ。「操」はあやつる、うまく使う意。「淮南子」の「説林訓」。「チウ」と読むのは難しい。淮南子も入手できず難しい。。。


★「築室道謀」(チクシツドウボウ)


 意見ばかり多くてまとまらず、物事が実現しないこと。「築室」は家を建てること。「道謀」は道を行く人に相談する意。「家を建てようと思うんだけど、どんな屋根がいいですかね?外壁は?間取りは?」なんて聞いていると、Aさんは「瓦葺がいい」、Bさんは「モルタルがいい」、Cさんは「二階建てより平屋がいい」など甲論乙駁、議論百出、勝手な意見が飛び交いまとまらない。「結局や~~~めた」という落ちに。出典は「詩経・小雅・小旻」で「室を築かんとして道に謀るが如し」。路傍の人は無責任な意見しか言わないのだ。いや、寧ろ、自分の家を作るのに人に聞くという優柔不断な態度を戒める句かもしれません。むろん「断章取義」ですがね。。。


★「蠹居棊処」(トキョキショ)


 いたるところに悪人が蔓延っていること。木の芯を食う蠹(きくいむし)が木にいて、碁石が盤面に散らばるように、悪人がいることの譬え。「蠹蟲的存在如棋子遍布棋盤。比喻壞人深入社會、散佈各處。」との解説が某中国語サイトにありました。出典は韓愈の「潮州刺史謝上表」で「孽臣奸隸,蠹居棋處」。「旋乾転坤」(センコンテンケン)=国の政局を一新すること、「輦轂之下」(レンコクノモト)=天子の御膝下、「誠惶誠恐」(セイキョウセイコウ)=まことにおそれかしこまる、も同じ文章中に見えました。正直意味は分かりませんが、国難を天子に上奏している文章のようです。


★「道傍苦李」(ドウボウクリ)


 人から見捨てられ、見向きもされないものの譬え。「道傍」は道端。「苦李」は苦いすもも。道端の李は苦ければ誰も見向きもしないということ。あ、これって逆かぁ、美味しいと思ったものには罠がある、食べてみたら苦かった。そんなに安易に美味しいものが手に入らないことの戒めではないでしょうか。据え膳食ったら何とやらかも。。。。


★「投桃報李」(トウトウホウリ)


 善に対して善で報いることの譬え。桃が贈られれば、返礼として李を贈り報いる意。また、自ら徳を施せば人もこれを手本にする譬え。さらに友人の間の贈答のこと。「桃を投じて李に報ゆ」と訓読。出典は「詩経・大雅・抑」で「我に投ずるに桃を以てすれば、之れに報ゆるに李を以てす」。桃と李とどっちが価値があるのだろうか?分からん。まさか桃を貰ってに二倍返しで李ってことはないよなぁ。貰い損じゃんか。どんなに小さい恩義にもお返ししなければならんのか、恩義をもらったらちょっとでいいからお返ししなければならんのか。。。。?さあどっちが生きる道?


★「同袍同沢」(ドウホウドウタク)



 苦労を共にする親密な友。また、戦友のこと。衣服を共にする意から。「袍」はわたいれ。「沢」は肌着。一枚のパンツをお互い共有するって、、かなりやばい仲じゃない?「同袍」を「同朋」「同胞」と書き誤らないように注意がありますが、其の方がいいんじゃない?「同胞同沢」って、だめじゃん。「沢」の方がパンツだったよ。出典は「詩経・秦風・無衣」で「豈曰無衣、与子同袍、王于興師、脩我戈矛、与子同仇、豈曰無衣、与子同沢、王于興師、脩我矛戟、与子偕作、豈曰無衣、与子同裳、王于興師、脩我甲兵、与子偕行」。なんかリズムよさしそうな詩ですね。秦国の民草が意気揚々と戦に出る雰囲気が出ています。

★「鋳山煮海」(チュウサンシャカイ)


 財を多く蓄えること。「鋳山」は山から銅を採取して鋳て銭を作る意、「煮海」は海水を煮て塩を作る意。「山に鋳、海に煮る」と訓読する。出典は「史記・呉王伝」。某解説サイトに「呉には鄣郡の銅山があり、劉(前漢王朝の公子)は亡命者を招いて銭を私鋳し、また海水を煮て塩を製造した。そのため領民に人頭税を賦課する必要がなく、 国の財政は豊かであった。そして身代金によって人の身代わりに兵役に服する者には、官より時価の賃金を与えた。さらに季節ごとに国内の賢人の安否を問い、 村里の人々に賞賜した。」とあります。国が豊かで人民が霑ったということを言うようです。


★「中流砥柱」(チュウリュウノシチュウ)


 困難にあってもびくともせず、節義を曲げない人物の譬え。黄河の中に立って少しも動かない砥柱山→黄河河南省三門峡の東、陝州(センシュウ)にあり、聳え立つ砥石のように平らな岩石。己の信念を守り通し、時流に流されないさまを自然の景勝に譬えたもの。


★「重熙累洽」(チョウキルイコウ)


 光明をかさねて広く恩恵が行き渡ること。代々の天子が賢明であり、泰平の世が長く続くこと。「重熙」は光明をかさねる意、「累洽」は天子の徳があまねく行き渡る意。出典は班固の「東都賦」。「煕」は「洽」とも「ひろい、あまねし」という意味で「熙洽」(キコウ)=徳のある天子が次々と位を継ぐこと、という熟語もあり。


★「糶糴斂散」(チョウテキレンサン)


 豊作の年には政府が米を買い上げ、それを凶作の年に安く売ること。「糶」は米穀を売り出すこと、「糴」は米穀を買い入れること、「斂散」は集めることと放出すること。中国春秋時代に管仲に始まったという物価安定と食糧安保の一箭双雕を狙う経済政策。以前取り上げた、安いときに買い入れ、高くなったら売り出す「賤斂貴発」(センレンキハツ)に通じるものがある。「糶」は「うりよね」、「糴」は「かいよね」。部首は「米」で、音符は「抜擢」の「擢」=抜き取る、から。「出」と「入」の微妙な違いなので、抜き取って「米を売り出す(糶)、米を買い入れる(糴)」と覚えましょう。読めるだけでは駄目、書けなければいけない漢字です。

「蚌、明月を含む」と「滴水滴凍」=「碧巌録」で四字熟語抔

 本日の「碧巌録」は、「蚌、明月を含む」(ボウメイゲツをふくむ)と「滴水滴凍」(テキスイテキトウ)。

 「第九〇則 智門般若の体」の「本則」に次の件が見えます。

【本則】 挙す。僧、智門に問う、「如何なるか是れ般若の体」。〔通身影象無し。天下の人の舌頭を坐断す。体を用いて什麼か作ん。〕門云く、「蚌、明月を含む」。〔光万象を呑むは即ち且て止き、棒頭正眼の事は如何。曲は直を蔵さず。雪上に霜を加うること又た一重。〕僧云く、「如何なるか是れ般若の用」。〔倒退三千里。用を要して什麼か作ん。〕門云く、「兎子懐胎す」。〔嶮うし。苦瓠は根に連(いた)るまで苦く、甜瓜は蔕に徹(いた)るまで甜し。光影の中に活計(くらし)を作す。智門の窠窟を出でず。若し箇の出で来たるもの有らば、且道(さて)、是れ般若の体か是れ般若の用か。且く要す土上に泥を加うることを。〕

 「般若」とは「梵語prajňãに相当する音写語。知慧のこと」。

 「通身影象無し」は「(般若の体という)体全体の影も形も無い」。

 「蚌、明月を含む」は「蚌(カラスガイ)は仲秋の明月の光を浴びると真珠を孕むという伝承がある、ここでは、般若の知慧の光を体得することに喩える」。

 迂生の好きな晩唐の詩人に李商隠(いつか採り上げますよ)がいますが、彼の「錦瑟」という詩の中で「滄海月明らかにして珠に涙有り」という一節があります。古代中国では、真珠は海中の蚌から生まれ、蚌は月と感応し合って、月が満ちれば真珠が円くなり、月が欠ければ真珠も欠けると思われていました。また、仲秋の名月の時期になると、蚌は水面に浮かび、口を開いて月光を浴び、月光に感応して真珠が出来ると考えられていました。

 「兎子懐胎す」は「兎は仲秋の明月の光を浴びると懐妊するという、これも伝承がある、ここでは、般若の知慧の輝きを自ら発することに喩える」。


 「第九一則 塩官の犀牛の扇子」の「評唱」に次の件があります。


 …此れ皆な是れ下語(あぎょ)の格式なり。古人此の事を見徹すれば、各各同じからずと雖も、道得(い)い出だし来たれば、百発百中、須(かなら)ず出身の路有って、句句血脈を失わず。如今(いま)の人は問著(といつめ)れば、只管に道理計較を作す。所以に十二時中、人に咬嚼するを索め、滴水滴凍にして、箇の証悟する処を求めしむ。看よ他の雪竇一串(いっせん)に頌して云うを。

 「下語」は「コメントをつけること」。この場合は「ア」「ギョ」とそれぞれ唐宋音と漢音の組み合わせ。ちょっと難しい。

 「咬嚼」は「(その理屈のままに)咀嚼すること」。四字熟語では「咬文嚼字」(コウブンシャクジ)が想起されます。難渋な文章を嚙み砕いて翫わうこと。それが難しいこと。

 「滴水滴凍」は漢検四字熟語辞典には「滴水嫡凍」として掲載されています。「瞬時も気をゆるめないで仏道修行に励むこと」とある。ぽたぽたと間断なく水が滴り落ちるさま。「嫡」は直系の血筋の意味ですが、転じて、「ただちに・すぐに」という意味が派生。滴り落ちる水がすぐさまに凍結するように、一瞬の気の弛みも許さないことから。「嫡」を「テキ」と読むのは表外の音読み(漢音)で意外に珍しいですね。迂生は刱めて見ました。「よつぎ」という表外の訓読みがあり、本番ではこちらの方が狙われそうですね。しかし、漢字源を見ると、「チャク」=呉音、「テキ」=漢音とあり、両方とも一般的のようです。「嫡子」も「チャクシ」と「テキシ」、「嫡出」も「チャクシュツ」と「テキシュツ」のいずれもOKです。

 「一串」の読みは「イッセン」。「イッカン」でも良さそうですが、この読み分けは非常に難しい。「串」には「くし、つらぬく」と「なれる、気脈を通じる」という意味が在る。前者は「カン」、後者は「セン」とされますが、辞書によっては逆の場合もあり難しい。「串戯」(冗談・ギャク)は「カンギ」、「親串」(仲間)は「シンセン」。

本日のmixi日記転載四字熟語は次の通りです。

★「菟糸燕麦」(トシエンバク)、「菟葵燕麦」(トキエンバク)


 有名無実。役立たず。「菟糸」は「ねなしかずら」という草の名、「菟葵」は「いえにれ」という草の名、「燕麦」は烏麦のこと。「糸」があっても織れないし、「葵」と名が付いてもそのものを食べるわけでなし、「麦」とは名ばかりで飼料や緑肥にしかならないもの。。。いずれも字面はいいが、中身は大したことない見掛け倒し。。。ということのようですが、それぞれの植物そのものには辜はない。だって、人間が勝手に名前をつけただけでしょ。いい迷惑だぜ。。。ったくって零しているはずです。ちなみに「莵葵」は「いそぎんちゃく」の熟字訓もあり。「莵裘の地」は引退後に隠居する土地のこと。「於菟」は虎(但、楚の方言)。

★「頽堕委靡」(タイダイビ)


 身体や気力などが、しだいにくずれ衰えること。「頽堕」は崩れ落ちる、だらしなくなること、「委靡」は衰え弱る、ふるわないこと。「怠惰」と「萎靡」と間違え易いので注意。特に「委」と「萎」が間違える。「委」は「すてる」「曲がりくねったさま」。「紆余委蛇」(ウヨイダ)はうねうねと長く続くさま。


★「戴盆望天」(タイボンボウテン)


 二つのことを一度に実現させるのは無理だということ。「戴盆」は頭に盆を載せること、「望天」は天を仰ぎ見ること。頭に盆を載せたまま天を仰ぎ見ることは、、、、できませんわな。それぞれ別の動作であり、別の意味がある行為です。それぞれやればいいんです。何も危ない橋を渡るように同時にやらなければならない法はないと思います。時間的制約があるのなら、優先順位をつけて高い方を選び、のちのち時間的余裕ができたときにもう一つのことをすればいいんです。簡単なことです。身体は一つしかないんですから。若くはないんですから。。。


★「大惑不解」(タイワクフカイ)


 自分の心の惑いがわかっていない者は一生の間真理を悟ることができない。また、いろいろ疑い迷って、その疑問がなかなか解けないこと。「不解」を「不快」と書き誤るなと漢検四字熟語辞典にあります。出典は「荘子・天地」で、「其の愚を知る者は大愚に非ざるなり。其の惑を知る者は大惑に非ざるなり。大惑なる者は終身悟らず、大愚なる者は終身暁からず」。自分の愚かさをわかっている者は大愚ではなく、自分の惑いがわかっている者は大惑ではない。大惑のものは死ぬまでさとるときがなく、大愚のものは死ぬまで知恵がひらけない。世俗に諂りながらそれを自覚しない莫迦どもこそが、この大惑であり、大愚なのである。無知の知と言っていいでしょう。己の惑い、愚かさを知ることがすべての出発点です。それがあるから前に進めるのです。


★「打成一片」(ダジョウイッペン) →「碧巌録」で既出

 すべてのことを忘れて物事に専念すること。千差万別の事物の相を平等に観ずること。仏教語とあり出典はかの「碧巌録」なり。読みが注意で「打成」は「ダジョウ(タジョウもOK)」で、書きも注意で「イッペン」を「一編」や「一変」などと書き誤らないようにしましょう。


★「多銭善賈」(タセンゼンコ)、「多謀善断」(タボウゼンダン)


 資財や条件が整っていれば成功しやすいということ。「多銭」は元で・資本の多いこと、「善賈」は良い商いをする意。「多銭、善く賈(あきない)す」と訓読する。類義語は「長袖善舞」(チョウシュウゼンブ=袖が長いほどきれいに舞える)。出典は「韓非子・五蠹」で「鄙諺に曰く、長袖は善く舞い、多銭は善く賈うと。此れ多資の功を為し易きを言うなり」。世間の諺に「袖が長いと舞が上手い、銭が溜まると商売上手」というのがある。これは元手が十分だと仕事もしやすいことを言ったものである。足下の状態がしっかりしていないのにはかりごとが上手く行くわけがない。技を研こうよ、お金を貯めようよ。一方、「多謀善断」は「よくよく考えて、物事を巧みに処理すること」。「多謀」を「多望」「多忙」と誤まるなとの注意があり。「多○善●」のパターンで無理矢理一緒くたにしました。


★「断金之交」(ダンキンノマジワリ)


 非常に強い友情で結ばれていること。二人が心を同じくすれば金属をも断ち切ることができることから。出典は「易経・繫辞・上」で「二人心を同じくすれば、その利きこと金を断つ。同心の言は、その臭(かおり)蘭のごとし」。正しい心情の持ち主が二人して心を勠せれば、その鋭さは金鉄をも断ち切るほどであり、心を同じくする者の言葉は、蘭の芳りのようにかぐわしいものだ。類義語は多く、列挙すると、「断金之契」(ダンキンノチギリ)、「断金之利」(ダンキンノリ)、「管鮑之交」(カンポウノマジワリ)、「金蘭之契」(キンランノチギリ)、「膠漆之交」(コウシツノマジワリ)、「水魚之交」(スイギョノマジワリ)、「耐久之朋」(タイキュウノトモ)、「莫逆之友」(バクギャクノトモ)、「刎頸之交」(フンケイノマジワリ)。いずれも劣らぬ「男と男の堅い友情」です。


★「簞食瓢飲」(タンシヒョウイン)


 清貧に甘んじる譬え。わずかな飲食物。竹の器の飯と瓢簞に入った飲物。出典は「論語・雍也」で「賢なるかな回や。一簞の食(シ)、一瓢の飲(イン)、陋巷に在り。人は其の憂いに堪えず、回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や」。弟子の顔回を頌めまくった孔子の言葉。他の人ならそのつらさに耐えられない貧乏生活だが、顔回はそういう中でも自分の楽しみを改めようとはしない。えらいえらい。サブプライムバブル崩壊に伴う貧窮生活が始まるのです、いや始まっているのです。其の中でいかにして生活を楽しめるかどうかがポイントになるでしょう。「簞食瓢飲」という言葉を嚙み締めましょう。「顔回簞瓢」(ガンカイタンピョウ)、「朝齏暮塩」(チョウセイボエン)などが類義語。

★「断薺画粥」(ダンセイカクシュク)


 貧乏に耐えて勉学に励むこと。「薺」はなずな(ぺんぺん草)、「断薺」はなずなをきざむ意。「画粥」は固くなった粥を四角く切ること。いずれも裕福な家庭では食べるものではない。出典は「范希文修學最貧、在長白山僧舍、煮粟二升、作粥一器、經宿遂凝、以刀畫爲四塊、早晚取二塊、斷薺數十莖、而之」という故事から。
 類義語は「車胤聚蛍」(シャインシュウケイ)、「蛍雪之功」(ケイセツノコウ)、「苦学力行」(クガクリッコウ)、「鑿壁偸光」(サクヘキトウコウ)など。春の七草も漢字で書けるようにしておきましょう。これを機に「芹、薺、御形、繁縷、仏座、菘、蘿蔔、これぞ七草」。秋は、、、いいよね。


★「断爛朝報」(ダンランチョウホウ)


 切れ切れになって、続き具合の分からなくなった朝廷の記録。ずたずたに千切れた官報。ここが注意で、また、「春秋」(孔子の表わした歴史書)を毀って言う言葉。出典は「宋史・王安石伝」で「春秋の書を黜けて、学官に列せしめず。戯れに目して断爛朝報と為すに至る」。北宋時代の王安石は、春秋が欠落の文章だと看做し、孔子の意図するものが罩められているものではないと断じた。這の辺りの春秋を運る学問の動向は奥が深く、迚も太刀打ちできません。これくらいで引き下がります。既報ですが「春秋筆法」「筆削褒貶」「微言大義」「皮裏陽秋」などのキーワードと共に、「断爛朝報」も知ったかぶりで覚えておきましょう。

「掩耳偸鈴」と「一箭双雕」=「碧巌録」で四字熟語


 本日の「碧巌録」は、「掩耳偸鈴」(エンジトウリン)と「一箭双雕」(イッセンソウチョウ)。


 「第八五則 桐峰庵主の大虫」の「評唱」に次の件があります。

 …千古の下、人の点検に遭う。所以に雪竇道く、「是なることは則ち是なるも、両箇(ふたり)の悪賊、只だ解く耳を掩って鈴を偸むのみ」と。他の二人皆な是れ賊なりと雖も、機に当って却って用(はたらか)ず。所以に耳を掩って鈴を偸む。此の二老、百万の軍陣を排(つら)ねて、却って只だ掃箒(ほうき)を闘わしむるが如し。…

 「耳を掩って鈴を偸む」は、漢検四字熟語辞典には「掩耳偸鐘」(エンジトウショウ)の類義語として掲載があります。それによると、「浅はかな考えや知恵で自分を欺くたとえ、また、自分の良心を欺き悪事をはたらくたとえ」とある。「掩耳」は耳をふさぐこと、鐘を盗むのに音がして(鐘が鳴って)人に知られることを恐れて自分の耳をふさいでもどうにもならないことをいう。類義語はほかに「掩耳盗鈴」(エンジトウリン)、「掩目捕雀」(エンモクホジャク)。押さえたり、隠したりするのは耳や目にとどまりませんよ。「掩巻」(エンカン=読書をやめる)「掩鼻」(エンビ=臭いをかがない)、「掩涙」(エンルイ=涙をおさえる)。

 「排ねる」の訓み方は表外ということで押さえておきたい。


 「第八七則 雲門、薬病相治す」の「頌」に次の件があります。

【頌】 …門を閉じて車を造らず、〔大小(さすが)の雪竇、衆の為に力を竭すも、禍は私門より出づ。坦蕩として一糸毫(けすじほど)も掛からず。阿誰か閑工夫(ひま)有らん。鬼窟裏に向いて活計(くらし)を作す。〕通途自ずから寥廓たり。〔脚下は便ち草に入り、馬に上って路を見る。手に信(まか)せて拈(と)り来たり、不妨に奇特なり。〕錯、錯。〔双剣、空に倚りて飛ぶ。一箭もて双雕を落とす。〕鼻孔遼天たるも亦た穿却(うが)たれたり。〔頭落ちたり。打って云く、穿却ち了せり。〕

 「大小」は「さすがの~」と訓み、「~ともあろうものが」と訳す。

 「坦蕩」(タントウ)は、「たいらかでゆったりとしているさま」。

 「通途」(ツウト)は「大通り」。「寥廓」(リョウカク)は、「なにもなくうつろである、むなしいほどに大きい、広々とした天空」。

 「一箭もて双雕を落とす」(イッセンもてソウチョウをおとす)は「一箭双雕」で漢検四字熟語辞典に掲載。「弓を射るのがうまいこと、また、ただ一つの行為で二つの利益を得ることのたとえ」。一本の箭(や=矢)で二羽の雕(わし=鷲)を射ること。類義語は「一発双貫」(イッパツソウカン)、「一挙両得」(イッキョリョウトク)、「一石二鳥」(イッセキニチョウ)、「一挙双擒」(イッキョソウキン)。

 「遼天」は「はるかな空のように鼻高々であるさま」。


本日のmixi日記転載四字熟語は次の通りです。

★「鏃礪括羽」(ゾクレイカツウ)


 学識をみがいて、世に役立つ人材になること。「鏃礪」は鏃(やじり)を研ぐこと、「括羽」は筈(やはず)と鳥羽の意。研いだ鏃を竹につけ、さらに筈と鳥羽をつけて鋭い矢にすることから、学問や知識を身につけることをいう。何となくですが以前出した「射石飲羽」(精神一到)と関連付けて覚えることが可能なような可能でないような。。。。


★「大隠朝市」(タイインチョウシ)


 真の隠者は山中などにいるのではなく、一見一般の人と変わらない生活をしているものだということ。「大隠」は真に悟りを得た隠者のこと。「朝市」はまちなか、市井という意味。「大隠は朝市に隠る」と訓読する。「市中閑居」(シチュウカンキョ)が類義語。市井の人にも悟りを開いたものはいる、そうあなただってなれるのだ。


★「大衾長枕」(タイキンチョウチン)


 兄弟睦まじいこと。交情が親密なこと。「衾」は夜着、かけぶとん。おおきなかけぶとんと長い枕で一緒に寝る仲。漢検四字熟語辞典によると、もともとは夫婦仲の睦まじいことを言ったが、唐の玄宗皇帝が兄弟仲良く寝られるように長い枕に大きなかけぶとんを作ったことから、兄弟の仲睦まじいことの譬えに用いられるようになった。「衾」は「衾褥」(キンジョク)がある。「長枕大被」(チョウチンタイヒ)が類義語。「タイキン」が「大金」「胎禽」「太鈞」「大鈞」「退勤」でないことに留意。「チョウチン」が「提灯」「堤燈」でないことは。。。分かるよなぁ。


★「太羹玄酒」(タイコウゲンシュ)


 規則のみに縛られた淡白で面白味のない文章(詩歌)の譬え。「太羹」は味のついていない肉汁、「玄酒」は水の別名。祭のときに水を酒の代用としたところから。調味料や味の離いていないもので、「用以比喻詩文風格淡雅古樸」。「大羹玄酒」とする例も多い。「羹」はあつもの、スープ、お吸い物。「懲羹吹膾」(ちょうこうすいかい)で有名。最近の新聞記事も「太羹玄酒」なものが多いですよねぇ。詰まらん。。。


★「屠羊之肆」(トヨウノシ)、「屠所之羊」(トショノヒツジ)


 「屠」られる「羊」が共通しているのでまとめてみました。意味は各、「羊を殺してその肉を売る店、転じて賎しい身分の象徴」と「刻々と死に近づいているものの譬え」。
 「屠羊之肆」の出典は「荘子・譲王」で「夫れ三珪の位は、吾れ其の屠羊之肆よりも貴きを知れり。万鍾の禄は、吾れ其の屠羊之利よりも富めりを知れり。然れども豈に爵禄を貪りて吾が君をして妄りに施すの名あらしむべけんや。説は敢えて当たらず。願わくは復た吾が屠羊之肆に反らんや」。「三珪の位」は楚の高級官僚の役職。羊を殺して売りさばく職業の屠羊説の台詞。立派な階級も豊富な爵禄も、私如きの賎しい者に賜るという出鱈目をおやりになったら、汚名となって残りますよ。お受けできませんとして、天子からの下賜を断ったというエピソード。身分を弁えた高潔の士の泣かせる台詞です。


★「訥言敏行」(トツゲンビンコウ)


 人格者はたとえ口は重くても、実行は正しく敏速でありたいということ。「訥言」は口下手の意。「訥」一字で「くちべた」とも読む。「木訥」「樸訥」「朴訥」(以上ボクトツ)、「訥渋」(トツジュウ)、「訥訥」(トツトツ)。注意すべきは「咄咄怪事」(トツトツカイジ)の「咄」とは違うこと。出典は「論語・里仁」で「君子は言に訥にして、行に敏ならんと欲す」。ちゃんとやればいいんです。一々ことさらにアピールしなくてもね。。。。


★「斗筲之人」(トショウノヒト)


 器量の小さい人物の譬え。「斗」は一斗(周代では約1・94立)入りのます。「筲」は一斗二升入りの竹器。いずれも小さいキャパシティーしかない容器のこと。これも出典は「論語・子路」で「噫、斗筲の人、何ぞ算うるに足らん」。最近の政治家を称して孔子が見下した言葉です。さらに、註釈(岩波文庫)を視ますと、ただ単に器量が小さい事を言うのではなく、「聚斂」(税を取り立てる)するだけ(取り立てた税を斗筲に納れるだけ)の小役人という解釈もあるようです。現代に日本政府の財務省の役人も「斗筲之人」?


★「吐故納新」(トコノウシン)


 古いものを排除し、新しいものを取り入れること。「吐古」は古いものを吐き出すこと、「納新」は新しいものを入れる意。「新陳代謝」「新旧交代」「人心一新」などが類義語。出典は「荘子・刻意」で「此れ江海の士、世を避くるの人、間暇なる者の好む所なり。吹呴呼吸し、吐古納新、熊経鳥申するは、寿を為すのみ。此れ道引の士、養形の人、彭祖寿考なる者の好む所なり」。註釈(岩波文庫)によりますと、古い息を吐き出して新鮮な気息を吸い入れるという深呼吸のことだといいます。神仙術の長生き方法の一つ。荘子の口調は少し厳しいですが、長生きを求めることそのものを否定しているのではありません。無為自然の結果が寿であればいいという。


★「兎死狗烹」(トシクホウ)


 利用価値のある間は用いられるが、無用になると捨てられること。うさぎが殺されると、猟犬は不必要になり煮て食べられることから。もちろん「狡兎走狗」(コウトソウク)の方が有名成句ですね。出典は「韓非子・内儲説・下」で「狡兎尽くれば則ち良犬烹られ、敵国滅びなば則ち謀臣亡ぶ」。暗躍する謀臣を良犬に譬えています。目的が達せられればいらなくなものはたくさんある。果して1級合格という目的が達せられれば、その過程で学んだことはいらなくなるのでしょうか?わたしは逆だと思います。過程がいらないなら目的もいらない。過程がないのに合格できるわけがない。。。。

「羝羊触藩」と「点鉄成金」=「碧巌録」で四字熟語

 本日の「碧巌録」は、「羝羊触藩」(テイヨウショクハン)と「点鉄成金」(テンテツセイキン)。

 「第八四則 維摩の不二法門」の「評唱」に次の一節があります。

 …你且ず道え、是れ什麼処か是れ勘破(みぬ)ける処。只だ這の些子(かんどころ)は得失に拘らず、是非に落ちず、万仞の懸崖の如し。向上(うえ)に性命(いのち)を捨得(す)てて、跳得過去(とびだ)さば、你に許(みと)む親しく維摩に見えたりと。如し捨て得ざれば、羝羊の藩に触るるに大いに似たり。雪竇は故然(もと)より是れ性命を捨て得たる底の人、所以に頌出して云く、

 「羝羊の藩に触るる」は「羝羊触藩」と四字熟語で覚えましょう。「まがきに突っ込んで角をひっかけた牡羊のように動きが取れない、つまり、自ら墓穴を掘って藻掻き苦しむさま」。これ「易経」に出てくる結構有名な成句なんですが、なぜかしら漢検四字熟語辞典には掲載がない。漢検辞典にも成句として見えない。これは手落ちですよ。弊blogを読んでしっかりと押さえておきましょう。「羝羊」(テイヨウ)は見出し語にあります。


 続いて、「第八五則 桐峰庵主の大虫」の垂示に次の一節があります。

 垂示に云く、世界を把定(おさえこ)んで、繊毫(けすじほど)も漏らさず、尽大地の人、鋒を亡い舌を結ぶ、是れ衲僧の正令なり。頂門に光を放ち、四天下を照破す、是れ衲僧の金剛眼睛なり。鉄を点じて金と成し、金を点じて鉄と成し、忽ちに擒え忽ちに縦つ、是れ衲僧の拄杖子(つえ)なり。…

 「繊毫」は「センゴウ」。否定文で用いて「少しも~でない」。「糸毫」「寸毫」ともいう。

 「鋒を亡い舌を結ぶ」は「亡鋒結舌」(ボウホウケツゼツ)と四字熟語っぽく覚えてもいい。「気勢を殺がれてものが言えなくなったさま」。

 「点鉄成金」は直後の「点金成鉄」(テンキンセイテツ)とひっくり返してもOK。気合一つで何でもできること。修行者を導く練達した手際を指す。鉄だって金に変えられるけれど、下手すれば、金を鉄にもできてしまう。文章の添削の妙味を表す言葉でもある。新聞業界で言えばデスクの役割。現場の記者の精魂罩めた原稿を生かすも殺すもデスクの腕次第。下手に筆を入れると、「金」も「鉄」になってしまうが、ぴりりとした調味料を少しだけ入れることで「鉄」を「金」に変えることができるものです。こわいっちゃあこわいですが、人を導くということは簡単ではないんです。


 本日のmixi転載四字熟語は次の通りです。


★「先難後獲」(センナンコウカク)


 仁徳者は難事を先にして利益は後にすることとすること。類義語は「先苦後甜」(センクコウテン)。出典は「論語・雍也」で「仁者は難きを先にして獲るを後にす、仁と謂うべし」。


★「賤斂貴発」(センレンキハツ)


 物価が安いとき(賤)に買い入れて、物価が高騰したとき(貴)に安く売り出す物価安定策。「斂」は「あつめる」で「賤きとき斂め、貴きとき発す」と訓読する。「賤斂貴出」とも書く。経済学の基本ですね。現代でも十分通用する考え方。


★「草偃風従」(ソウエンフウジュウ)


 人民は天子の徳によって教化され、自然とつき従うようになるということ。出典は「論語・顔淵」の「君子の徳は風なり、小人の徳は草なり。草、これに風を上(くわ)うれば、必ず偃(ふ)す」。草は風が吹けば必ずなびく。風が大事。「偃」は「ふす、なびく、たおれる」という意。「偃息」(エンソク)、「偃武修文」(エンブシュウブン)、「偃臥」(エンガ)、「偃月」(エンゲツ)、「偃月刀」(エンゲツトウ)、「偃蹇」(エンケン)、「偃甲」(エンコウ)=「偃革」(エンカク)=弭兵、「偃草」(エンソウ)=教化、「偃然」(エンゼン)、「偃兵」(エンペイ)など熟語は多い。


★「叢軽折軸」(ソウケイセツジク)

 小さなものでも沢山集まると大きな力になるということ。「叢軽」はたくさん集まった軽いもの、「折軸」は車軸が折れる意。軽いものも積み重なれば車軸を折るほどの力を持つということ。「積羽沈舟」(セキウチンシュウ)、「積水成淵」(セキスイセイエン)が類義語。小さなことから兀兀と。。。。西川きよしでございますぅ。。。


★「簇酒斂衣」(ソウシュレンイ)


 貧乏生活。「簇酒」は杯に一杯ずつ集めた酒のこと、「斂衣」は端切れを乞い集めて作った衣服のこと。「簇」も「斂」も「あつめる」という意。「粗衣粗食」「簇酒歛衣」(ソウシュカンイ)が類義語。「斂」と「歛」は微妙です。注意しましょう。「歛」は「のぞむ、ねがう」で「歛丐」(カンカイ)=こじき。

★「甑塵釜魚」(ソウジンフギョ)


 非常に貧しい譬え。「甑」はこしき、せいろう。土焼きで上が大きく下が細く、底に七個の穴がある蒸すための器。「甑塵」は、貧しいため甑を使うことから塵が積もったということ。「釜魚」は釜に魚が湧くということ。魚と言ってもぼうふらのこと。「瓦」がつく漢字を整理しておこう。「甄」は陶器を作る職人のことで「すえ」とも読む。「甄別」(ケンベツ)、「甄陶」(ケントウ)、「甄抜」(ケンバツ)、「甄者」(ケンジャ)。「甎」は「しきがわら」で「甎全」(センゼン)。「甌」は「ほとぎ」で「甌脱」(オウダツ)、「甌臾」(オウユ)、「甌窶」(オウロウ)。「甍」は「いらか」で「甍宇」(ボウウ)。「甕」は「かめ、みか」で「甕天」(オウテン)、「甕頭」(オウトウ)、「甕牖」(オウユウ)、「甕牖縄枢」「甕裡醯鶏」は基本四字熟語。「甓」は「かわら」で「瓦甓」(ガヘキ)、「瓶」は「びん」で「瓶子」(ヘイシ)、「瓶筲」(ヘイソウ)、「瓶盆」(ヘイボン)、「瓷」は「磁」で「瓷器」(ジキ)。「甃」は「いしだたみ」で「甃砌」(シュウセイ)、「甃甎」(シュウセン)。「瓮」は「もたい」。


★「束皙竹簡」(ソクセキチクカン)、「束帛加璧」(ソクハクカヘキ)、「束髪封帛」(ソクハツフウハク)


 「束」で始まる四字熟語を三つ取り揃えました。意味は全然違うので無理矢理関連付けましょう。意味は順に「束皙は古墓などから出土した竹簡を解読して博学を称された」、「一束の帛の上に璧を載せる。昔、最高の礼物」、「妻が堅くその貞操を守ること」。「帛」が二語で共通していますが、「(白い)きぬ」のこと。「裂帛」(レッパク)=「きゃぁあああ~」、「帛書」(ハクショ)、「帛布」(ハクフ)、「帛紗」(フクサ)=袱紗、「幣帛」(ヘイハク)=ぬさ。


★「属毛離裏」(ゾクモウリリ)


 子と父母との深いつながりのこと。「属」も「離」もつらなる、つながるの意。「毛」は父親のこと、「裏」は母胎のこと。子の身体は、毛髪皮膚まですべて母胎(父母の血肉)とつながっているという意味。出典は「詩経・小雅・小弁」で「毛に属せざらんや、裏に離かざらんや」。

「疋馬単鎗」と「金声玉振」=「碧巌録」で四字熟語


 「碧巌録」で四字熟語シリーズはいよいよ岩波文庫の「下」に突入します。巻八の「第七一則」から巻十の「第一〇〇則」まで。本日は「疋馬単鎗」(ヒツバタンソウ)と「金声玉振」(キンセイギョクシン)。


 「第七一則 百丈、咽喉を併却(ふさ)ぐ」の「頌」に次の件が見えます。

 【頌】 和尚も也た併却ぐべし、〔已に言前に在り了れり。衆流を截断す。〕龍蛇陣上に謀略を看る。〔須是らく金牙にして始めて解す。七事身に随う。戦に慣れたる作家。〕人をして長く李将軍を憶わしむ、〔妙手多子無し。疋馬単鎗、千里万里、千人万人。〕万里の天辺に一の鶚が飛ぶ。〔大衆見るや。且道(さて)、什麼処(いずこ)にか落在す。中れり。打って云く、飛び過ぎ去れり。〕

 「龍蛇陣」は「兵法の陣(じんだて)の一つで、ここでは、百丈の発問をいう」。和尚に盾突いた百丈です。

 「七事」とは「弓、箭など七種類の武器」。

 「憶」は、ただ思うのではない、昔、往事に思いを騁せる意。「李将軍」とは漢の時代の名将軍で弓の名手の李広のこと。

 「疋馬単鎗」は「たった一騎でしかも一本の鎗で立ち向かうこと」。「疋」は「動物の足を数える単位」。一匹の馬。「鎗」は「やり」。「一騎当千」が想起されます。

 「鶚」は訓めますよね。「ガク」、「みさご」のことです。ワシ、タカの猛禽類。餌を追い求めて望見するさまを表わす。



 「第七三則 馬大師の四句百非」の「頌」に次の一節があります。


 【頌】 蔵頭は白く、海頭は黒し、〔半合半開。一手には擡げ一手には搦(おさ)う。金声して玉振す。〕明眼(みょうげん)の衲僧も会すること得ず。〔更に行脚すること三十年せよ。終是に人に你の鼻孔を穿却(うが)たる。山僧故是口担(へんたん)の似し。〕…
 「半合半開」は「半分閉じて半分開くといった思わせぶりな示し方」。

 「搦」は通常「からめる」。「そっと手に持つ」という意味もある。

 「金声玉振」は漢検四字熟語辞典に拠りましょう。「才知と人徳を調和良く備えていること。また、偉大な人物として大成すること」。「孟子・万章・下」に出てくる、孟子が孔子の人格を絶賛した言葉です。「金」は鐘のこと、「声」は鳴らす意、「玉」は「磬」(ケイ)という石製の打楽器、「振」は収める意。中国では、鐘を鳴らして音楽を始め、次に糸・竹の楽器を奏で、最後に磬を打って締めくくった。始まりをちゃんとして、終わりも乱れず整っていることを言う。音楽用語です。ぜひ「孟子」の一読をお勧めいたします。

 「口担」は「口をへの字に結んで黙り込むこと」。「担」は「天秤棒」。

 本日のmixi日記転載四字熟語は次の通りです。

★「白荼赤火」(ハクトセキカ)、「白兎赤烏」(ハクトセキウ)、「白髪青袗」(ハクハツセイシン)


 一面に軍を展開すること。兵が一面に白い花のように散り、赤い火が燃え盛るように展開するさま。「荼」は「にがな・のげし」。四字熟語辞典には「荼」を「茶」と誤まるなとあります。「荼毒」(トドク)、「荼毘」(ダビ)、「荼炭」(トタン)などがある。「白兎赤烏」(ハクトセキウ)は時間のこと。「白髪青袗」(ハクハツセイシン)は、晩年に官位を得る遅咲きの人。「白」で始まり「赤」「青」と色で対比するパターン。


★「麦穂両岐」(バクスイリョウキ)


 豊作の前触れのこと。「麦穂」は麦の穂、「両岐」は二股に分かれること。麦の穂が二股になって実るという意。「リョウキ」が浮かぶかどうか「良驥」「綾綺」「猟奇」「涼気」「猟期」「漁期」「両機」などではない。「バクスイ」は「爆睡」はないよなぁ。


★「社燕秋鴻」(シャエンシュウコウ)


 出会ったかと思うとまたすぐ別れることの譬え。「社燕」は春の社日(立春から五番目の戊=つちのえの日)に来て、秋の社日(立秋から五番目の戊の日に飛び去る燕。「鴻」は秋に来て春に去る白鳥。燕と白鳥が同じ時期に過ごすことはほぼないことから、お互いに出会うことの難しさをいったもの。季節季節の暦日の一種に「雑節」(ザッ切)というのがあって、節分、彼岸、社日、八十八夜、入梅、半夏生、土用、二百十日、二百二十日。社日というのは、「生まれた土地の神様(産土神)を祀る日。春と秋の2回行われ、春のものを春社〔シュンシャ/はるしゃ〕、秋のものを秋社〔シュウシャ/あきしゃ〕といい、春分(3月20日頃)と秋分(9月23日頃)のそれぞれに最も近い戊〔つちのえ/いぬ〕の日を指す」とある。「社」=土地の神様、「稷」(きび)は五穀の神様。合わせて有名な「社稷」(国の守り神、転じて国家)となり、「社稷の臣」は、「それらの神に仕えるもの、国家の重臣」となるわけである。


★「馬牛襟裾」(バギュウキンキョ)



 見識がなく無教養な者のこと。また、無礼者。「襟裾」はえりとすそだが、転じて衣服を着ることを表わす。つまり、衣服を着た牛や馬のような奴。結構きつい侮蔑の辞ですな。ネット検索で漸く見つけたら、「符讀書城南」という詩であの有名な成句「灯火親しむべし」の出典と同じでした。自分の息子、符に対して、親心で学問しなさいと説いている句。一部だけ引用すると、「人不通古今、馬牛而襟裾。行身陷不義、況望多名譽。時秋積雨霽、新涼入郊墟。燈火稍可親、簡編可卷舒。豈不旦夕念、為爾惜居諸。恩義有相奪、作詩勸躊躇。」。五言古詩と言う奴でしょうか。見事に偶数番目の句の終わりを「yo」で韻を踏んでいるのが分かります。
 ちなみですが、自分を謙る「牛溲馬勃」(ギュウシュウバボツ)、「牛糞馬涎」(ギュウフンバセン)という言い方もありますが、牛や馬が可哀相。有益な家畜なのに。。。。いずれも韓愈の詩が出典となっている。一体、韓愈は牛や馬に恨みがあるのかぁ?

★「杯水車薪」(ハイスイシャシン)


 何の役にも立たないこと。「杯水」はほんの僅かな水のこと、「車薪」は車一台分の薪のこと。杯一杯の水で車一台分の薪についた火事を消そうとしても無力だということ。出典は「孟子・告子・上」で「仁の不仁に勝つは、猶水の火に勝つがごとし。今の仁を為す者は、猶一杯の水を以て、一車薪の火を救うがごとし、熄えざれば則ちこれを水は火に勝たずと謂う。此れ又不仁に与するの甚だしき者なり。亦終に必ず亡わんのみ」。「仁」のお話です。少しばかりの「仁」しかないくせに、甚だしい「不仁」に勝とうとしている輩が多い。水が火に勝つのは消し去ることができて初めてのことだ。もっと大きな水になろうとするのが先。火を消せるだけの力を蓄えよう。焦ってはいけない。少ししかないが折角の「仁」すらなくしてしまうぞ。精進精進あるのみ。焦らず、じっくり力を蓄えましょう。「杯水車薪」で臨んでも意味のないことは世の中に沢山ありますよねぇ。。。。


★「破戒無慙」(ハカイムザン)


 戒律を破っても少しも恥じないこと。仏教語で「破戒を破壊と書くな、無慙を無残、無惨と書くな」との注意書きがあります。取り上げたのも、意味というより書き誤りに対する注意喚起です。


★「翦草除根」(センソウジョコン)


 災いを根刮ぎ除き去ること。問題を根本から解決すること。「草を翦り根を除く」と訓読する。類義語は「釜底抽薪」(フテイチュウシン)、「抜本塞源」(バッポンソクゲン)。「翦」がやや難しい。「きる」と読み、「剪」と書き換えが可能。「翦定」(センテイ)、「翦夷」(センイ)、「翦裁」(センサイ)、「翦裁」(センサイ)、「翦断」(センダン)、「翦紙」(センシ)、「翦屠」(セント)、「翦刀」(セントウ)、「翦伐」(センバツ)、「翦滅」(センメツ)、「翦余」(センヨ)など熟語は多い。すべて「剪」もOK。「詩経・国風・召南」の「甘棠」という詩中に「勿翦勿伐…」が見えます。「ブッセン」と読みます。

「出没巻舒」と「慧炬三昧」=「碧巌録」で四字熟語

 三日ぶりの「碧巌録」です。本日は、「出没巻舒」(シュツモツケンジョ)と「慧炬三昧」(エコザンマイ)。

 「第六八則 仰山、三聖に問う」の「評唱和」に次の一節が見えます。

 …其の実は是れ互換の機、収むるときは則ち大家(みな)収め、放つときは則ち大家放つ。雪竇一時に頌し尽し了れり。佗(かれ)の意に道く、「若し放収せず、若し互換せずんば、你は是れ你、我は是れ我ならん」と。都来(すべて)只だ四箇の字、甚(なに)に因ってか却って裏頭(なか)に於て出没巻舒す。古人道く、「你若し立てば我便ち坐り、你若し坐らば我便ち立たん。若也同に坐り同に立たば、二り倶に瞎漢(かつかん)と。…

 「出没巻舒」は漢検四字熟語辞典に記載は無い。「没」は「モツ」と呉音で読んで下さい。「没骨」(モッコツ)、「没義道」(モギドウ)。「巻舒」は「巻いたり、広げたりすること、転じて、才能を隠したり外へ出したりすること」。「出没」もほぼ同義。自由自在に自分の考えを隠したり押し広めたりする。己の思うがままに世界を操ることです。ある意味、理想的な処世かもしれません。

 続いて、「第六九則 南泉、忠国師を拝す」の「評唱」に次の一節があります。

 若是衲僧正眼に覰著(み)れば、只だ是れ精魂を弄するのみ。若し喚んで精魂を弄すと作さば、却って是れ精魂を弄するにあらず。五祖先師道く、「他の三人は是れ慧炬三昧、荘厳王三昧」と。此の如く女人拝を作すと雖然(いえど)も、他(かれ)終に円相の会を作さず。円相を画くと雖も、他終に円相の会を作さず。…

 「慧炬三昧」も四字熟語辞典には見えません。「慧炬」は「知慧のたいまつ」。「三昧」は「精神統一して得られた境地」。たいまつの火が物事をよく見極め、道理を正しく把握し照らし出すように精神を集中して乱れない。「荘厳王」は「福徳や知慧によって飾られた王者」。「ショウゴン」と読む。

 本日の四字熟語はかなり難しい。禅宗の極意みたいなもの。自在な境地と煩悩に打ち克つ境地。。。簡単には到達できませんね。

 本日のmixi日記転載四字熟語はやや多めで行きましょう。



★「折檻諫言」(セッカンカンゲン)


 臣下が君主を厳しくいさめること。「檻」は手すり、欄干、おばしま。「折檻」はてすりが折れること。「諫言」は目上の人をいさめる意。いずれも1級配当の基本中の基本漢字。偶には基本も押さえておきましょう。漢検四字熟語辞典によれば、前漢の朱雲が成帝に奸臣を斬るよう諫めたことろ、帝の逆鱗に触れ、その場から連れ出そうとした。しかし、朱雲は御殿の欄干につかまって諫言を止めず欄干の手すりの木が折れてしまったという故事があるそうです(漢書・朱雲伝)。「檻」は「おり」とも読み、「檻猿籠鳥」(カンエンロウチョウ)、「檻穽」(カンセイ)、「檻送」(カンソウ)、「檻致」(カンチ)、「檻輿」(かんよ)、「檻車」(カンシャ)→いずれも今で言う護送車のこと。下付きには「獣檻」(ジュウカン)、「牢檻」(ロウカン)などがある。注意すべきは「切諫」という言葉があるのでこれと混同しないようにしましょう。


★「折衝禦侮」(セッショウギョブ)


 武勇によって敵をくじき、敵の侮りを防ぎとめ恐れさせる。「折衝」は衝いて来る敵をくじく意、「禦侮」は敵がこちらを侮るのを防ぎとめる意。出典は「詩経・大雅・緜・毛伝」ですが見つかりませんでした。どうやら、今では極めて一般的な日常言葉である「折衝」はこの詩経が由来のようです。


★「截断衆流」(セツダンシュル)→「碧巌録」で既出


 俗世間の雑念妄想をたちきること。修行者が煩悩をたちきること。「衆流」は雑念妄想の譬え。いずれも仏教語。「シュル」と読むのは難しいですね。まぁ、出ないでしょ。


★「切問近思」(セツモンキンシ)


 すべての事を身近な問題として切実に取り上げ、自分のこととして考えること。出典は意外にも論語・子張で「子夏が曰く、博く学びて篤く志し、切に問いて近く思う、仁其の中に在り」から。「せつもん」が「切問」、切実な問題と読み切れるかどうかが最大のポイントですね。「キンシ」は「近思」でいいでしょう。「金翅」「鈞旨」「巾笥」「麕至」「菌糸」は浮かばんでしょうなぁ??


★「善巧方便」(ゼンギョウホウベン) →「碧巌録」で一部既出

 機に応じた方法にきわめて巧みなこと。また、その方法。仏が相手の素質や性格に応じて巧みに方法を講ずること。仏教語。「善巧」の読みが難しい。「ゼンギョウ」と読むので1級配当四字熟語になっています。「巧」を「キョウ」と読むのは呉音です。類義語は「応機接物」(オウキセツモツ)、「対症下薬」(タイショウカヤク)、「因病下薬」(インペイカヤク)、「応病与薬」(オウビョウヨヤク)。



★「僭賞濫刑」(センショウランケイ)


 適正を欠いた賞罰。「僭賞」は身分をこえた恩賞のこと、「濫刑」はむやみやたらに罰する意。賞罰の内容の度が過ぎていることをいいます。対義語は「信賞必罰」(シンショウヒツバツ)。「センショウ」は結構難しいかも。「戦捷」「僭縦」「僭称」「詮証」「戦竦」「尠少」「賤称」「船檣」「戦悚」「賤妾」「選奨」「先蹤」「鮮少」など多くの同音異義語がある。「らんけい」も「蘭閨」「蘭馨」「蘭桂」「蘭契」「卵形」「蘭渓」と「蘭」(あららぎ)系が多い。


★「八索九丘」(ハッサクキュウキュウ)


 古い書籍のこと。いずれも古代中国の書物の名称で現存はしない。「八索」は八卦(ハッカ)に関するもの、「九丘」は中国の九州の地理に関するもの。「春秋左氏伝記・昭公12年」に「王曰く、是れ良史なり。子善く之を視よ。是れ能く三墳・五典・八索・九丘を讀めり、と。」が見えます。

★「博聞約礼」(ハクブンヤクレイ)、「博施済衆」(ハクシサイシュウ)、「博学篤志」(ハクガクトクシ)


 「博」で始まるこれら三つは出典がいずれも「論語」。意味は順に「博く文献に目を通して学問を修め、礼を以て学んだことを締めくくり実践すること」、「博く恩恵を施して、民衆を苦しみから救うこと」、「学問が博く熱心なこと」。まぁ、文字通りの意味は難しくないでしょう。原典に当たってみると、それぞれ「君子、博く文を学びて、これを約するに礼を以てせば、亦た以て畔かざるべきか」(雍也)、「如し能く博く民に施して能く衆を済わば、如何。仁と謂うべきか」(雍也)、「博く学びて篤く志し、切に問いて近く思う、仁其の中に在り」(子張)。「畔く」が「そむく」と表外読み。

「不請勝友」と「驪龍玩珠」=「碧巌録」で四字熟語

 本日の「碧巌録」は、「不請勝友」(フショウショウユウ)と「驪龍玩珠」(リリョウガンシュ)。


 「第六二則 雲門、中に一宝有り」の冒頭の「垂示」に次の件が見えます。

 垂示に云く、無師の智を以て無作(むさ)の妙用(みょうゆう)を発し、無縁の慈を以て不請の勝友と作る。一句下に殺あり活あり。一機中に縦あり擒あり。且道(さて)、什麼なる人か曾て恁麼にし来たる。試みに挙し看ん。

 「無師の智」は「師によらず自然に証得する知慧」。

 「無作の妙用」は「情識分別をまじえない絶妙のはたらき」。「用」は「ゆう」と呉音で読むのがポイント。

 「無縁の慈」は「平等無差別の慈悲」。無縁慈悲ともいう。

 「不請の勝友」(フショウのショウユウ)は「求められず自ら進んですぐれた友となる。衆生の導き手をいう」。「請」は呉音「ショウ」。「こうこと」です。ここでいう「勝友」は「すぐれた友」で「勝引」(ショウイン)ともいいます。「引」とは「自分の徳を進めてくれる友の意」。無償の愛ならぬ、分け隔てない友情。押し付けになってはいけないが、相手に何も要求しない友情こそ真の友情なのでしょう。難しいですがね。

 ちなみに、「勝」には「まさる、すぐれる、すぐれた景色」という意味があります。漢検1級試験でも白居易の「勝地は本来定主無し」から「勝地」(ショウチ=けしきのよい土地)が故事成語問題で問われたようです。「勝友」も覚えておきましょう。「松の木」という意味もあります。これを機会に「勝」の熟語を押さえておきたいところです。

 「勝概」(ショウガイ)=すぐれた趣。よい景色。

 「勝景」(ショウケイ)=すぐれた景色。

 「勝国」(ショウコク)、「勝朝」(ショウチョウ)=今の王朝に滅ぼされた前代の王国。

 「勝事」(ショウジ)=りっぱなこと、よいこと。人の耳目をそばだてひくような大事件。

 「勝状」=すぐれたけしき。

 「勝迹」(ショウセキ)、「勝蹟」「勝跡」=名高い古跡、すぐれた事跡。

 「勝絶」(ショウゼツ)=非常にすぐれていること、けしきが非常にすぐれていること、その土地。

 「勝致」(ショウチ)=すぐれた風景のおもむき。

 「勝兵」(ショウヘイ)=すぐれた兵隊、精兵、敵に勝った兵隊。

 「勝遊」(ショウユウ)=心にかなった遊び、風流な遊び。

 「勝流」(ショウリュウ)=上流階級。

 「勝麗」(ショウレイ)=けしきの非常に美しいさま。


 おなじく第六二則の「頌」には、次の一節が見えます。


 【頌】 看よ看よ、〔高く眼を著けよ。看ることを用いて什麼か作ん。驪龍珠を玩ぶ。〕古岸何人か釣竿を把る。〔孤危は甚(いかに)も孤危、壁立は甚も壁立なるも、賊過ぎし後に弓を張る。脳後に腮(あご)を見れば、与に往来すること莫れ。〕雲は冉冉、〔打断(たちき)りて始めて得し。百匝千重。炙脂の帽子、鶻臭の布衫。〕水は漫漫。〔左之右之(うろうろ)して、前に遮り後に擁ぐ。〕明月蘆花、君自ら看よ。〔看著すれば則ち瞎(かつ)す。若し雲門の語を識得せば、便ち雪竇の末後の句を見ん。〕

 「驪龍玩珠」の「驪龍」(想像上の驪=くろ=い龍)は、あごの下に宝珠を持つと言われ、それは仏性に喩えられる。その宝珠を龍自身がめでている情景をいう。「驪竜頷下之珠」と言えば「高価な美玉のたとえ、命懸けで求めなければ得られない貴重なもののたとえ」。

 「脳後に腮を見れば」というのは「頭の後ろに顔のある化け物」。「腮」は「あご」。

 「百匝千重」(ヒャクソウセンチョウ)は「百重千重にとりまかれているさま」。「匝」は「めぐる」。

 「炙脂」(シャシ)は「あかにまみれたさま」。「鶻臭」(コツシュウ)は「腋臭のくさいさま」。「布衫」(フサン)は「肌着」。要は、いかにも禅宗臭さが吹っ切れていないさまを表わしている。「鶻」は「はやぶさ」で「鶻突」(コットツ)=「渾沌」(コントン)。

 「明月蘆花」(メイゲツロカ)は「明月と蘆花が互いに照り映え、個別の相を消し去った情景」。

 「瞎」は配当外で「カツ」。目が見えなくなるさま、片目。


本日のmixi日記転載四字熟語は以下の通りです。


★「斉東野語」(セイトウヤゴ)


 聞くに堪えない下品で愚かな言葉。また、信じがたい妄説のこと。「斉東」はいまの中国山東省の東部。その地方の言葉は、辺鄙な田舎の言葉で相当に訛っていた。出典は「荘子・万章・上」の「孔子曰く、斯の時に於いて、天下殆いかな岌岌乎たりと、識らず、此の語誠に然るか。孟子曰く、否、此れ君子の言に非ず。斉東野人の語なり」。
 孔子が「この時ばかり(尭が舜に天子の位を譲った際、尭が諸侯を将いて臣下の礼を取り拝謁したことを指す)は、天下の人の倫は実に危険極まりないことであった」と言った。これが真実かどうか問われた孟子は「いやいや、君子が言っているのではない、斉の国の東の果ての分からずやの田舎者の戯言にすぎぬ」と答えた。なぜなら、尭の存命中は舜は天子に就かなかった、年老いた尭の代わりに摂政を執り行ったまでだというのです。天子であっても父子間の礼節は弁えるべきだとする儒家の根源をいうエピソードです。これを否定するものを孟子は「斉東野語」と罵ったのです。「岌岌」は「見るからに危険な様子」。


★「反哺之羞」(ハンポノシュウ)


 親の恩に報いること。「反哺」は烏の子が成鳥になると、育ててくれた親鳥に餌を運んで、口移しをして親を養うということから、父母への恩返しを表わしている。注目すべきは「羞」。ヘキサゴンで作られ、間もなく音楽活動を休止する「羞恥心」で用いられ、今年の漢字に選ばれても可笑しくないほど人口に膾炙した1級漢字ですが、「はずかしい」のほかに「すすめる、(食事を)そなえる」とも読む。反哺之羞はこちらの意味。いや、むしろ元々はこちらの意味。「羊」と「丑」が入っているが、これらの肉を手で細かく引き締めるさま。「時羞」(ジシュウ=その時節の食べ物)、「膳羞」(ゼンシュウ)=「羞膳」(シュウゼン)=「羞饌」(シュウセン=ごちそうを進める)。


★「汎濫停蓄」(ハンランテイチク)、「黛蓄膏渟」(タイチクコウテイ)


 前者は「広い分野にわたって、深い学識があること」、後者は「水面が非常に静かなさま」。全く無関係の四字熟語同士ですが、「蓄」と「停・渟」が何となく被っているので、どうせ覚えにくいのだから、こじつけ気味に同列にまとめてみようかと思っただけです。
 漢検四字熟語辞典には「渟」と「停」と書き誤りやすいとの注意書きがありました。「停蓄」は「渟蓄」の方が合って入るような気がします。もし問題ででたら迷うし、間違うなぁ。「汎濫テイチク」、「黛蓄コウテイ」。。。渟蓄。。。停蓄。。。膏渟。。。膏停。。。扛鼎。。。黛蓄。。。タイ地区。。。。

 もういっちょうありました。「渟膏湛碧」(テイコウタンペキ)。水があぶらのように深く静かによどんで深緑色にたたえているさま。「渟」は水が止まって流れないさま。「湛碧」は深緑色の水をたたえていること。


★「跛立箕坐」(ハリュウキザ)


 無作法なさま。片足で立ったり(跛立)、両足を投げ出して坐ったり(箕坐)するなど、見るからに礼を失した態度です。出典は「礼記・曲来・上」で「側聽(そくちょう)するなかれ。應(きょうおう)するなかれ。淫視(いんし)するなかれ。怠荒(たいこう)するなかれ。遊びて倨るなかれ。立ちて跛(は)するなかれ。坐りて箕(き)するなかれ。寢て伏することなかれ。髪を歛(おさ)めて髢(たい)するなかれ。冠して免(ぬ)ぐことなかれ。勞すとも袒(たん)することなかれ。暑くとも裳を(かん)することなかれ」から。いずれも不敬に当たる行為ばかりで、原文では「毋(なか)れ」と強い調子で禁じています。「跛」は「あしなえ」で差別用語。「跛鼈千里」(ハベツモセンリ、既出)は「びっこをひいたすっぽんも一歩一歩進めば千里をいける」。「跛行景気」は「同じ業界でも好調な企業と不調な企業がある斑な景気の様子(当たり前ですがね)」。ほかに、「跛蹇」(ハケン)、「跛倚」(ヒイ)は「ヒ」と読むが、これは出ないか?「箕」は「ミ」で「穀物を入れて上下に動かしながら塵や籾を取るための平らで四角い籠用の物」。「穀箕」(コクキ)、「箕賦」(キフ=聚斂、税の取り立て)、「箕箒」(キソウ=ちりとちとほうき)、「箕箒妾」(キソウノショウ=人の妻となる)。このほか、「箕裘の業」、「箕踞」(箕坐)、「箕山の志」=「箕山之節」など重要成句が目白押し。


★「発揚蹈」(ハツヨウトウレイ)


 手足を揚げて地を踏んで、激しい勢いで舞を舞うこと。「発揚」は盛んにすること、「蹈」はあしぶみすること、小躍りするさま、「」は激しいさまをいう。出典はこれまた「礼記・楽記」で「発揚蹈は、太公の志なり」とある。「蹈」は「ふむ」。「蹈海」(トウカイ=海に身投げ)、「蹈義」(トウギ)、「蹈践」(トウセン)、「蹈藉」(トウセキ)、「蹈敵」(トウテキ)、「蹈鞴」(トウビ、たたら)、「蹈履」(トウリ)。「蹈常襲故」(トウジョウシュウコ)も押さえましょう。「高蹈」(コウトウ)、「舞蹈」(ブトウ)の下付きも。


★「伐氷之家」(バッピョウノイエ)


 位の高い高貴な家柄のこと。出典は「大学」の「馬上を畜えば鶏豚を察せず。伐氷の家には牛羊を畜わず。百乗の家には聚斂の臣を畜わず。其の聚斂臣あらんよりは、寧ろ盗臣あらん」。卿大夫(家老職相当)以上の身分を言う。冬の間に氷を切り出して氷室に蓄え、夏季の卿大夫の喪礼祭礼にそれを分け与えて使わせた。その恩恵に与ることのできる家を指す。最後の件は故事成語問題で頻出。今回も要注意です。「聚斂」と「盗臣」が狙われます。財政再建もいいが、道議を守ることが最大の国益となる。しかし、今の時代、この道議が曖昧だと思います。一部の業界や階層だけが恩恵に浴しているのは事実。この国をどうしたいのかが明確でない気がします。だから、弱い。消費税増税も、財政再建も、景気対策も小手先の政策に過ぎないような気がします。「聚斂の臣よりも盗臣あれ」ではなくて、「聚斂の臣も盗臣も両方」がのさばっているのではないでしょうか。翻ってこの国の伐氷之家はもろもろの事情で窘しんでいますがね。。。。

「虎嘯風生」と「喪車の背後に薬袋」=「碧巌録」で四字熟語抔


 本日の「碧巌録」からは、「虎嘯風生」(コショウフウショウ)と「喪車の背後に薬袋」(ソウシャのハイゴにヤクタイ)。


 「第五五則 道吾、漸源と弔孝す」の「本則」に、次の件が見えます。

 【本則】 挙す。道吾、漸源と一家(あるいえ)に至って弔慰す。源、棺を拍って云く、「生か死か」。〔什麼を道うぞ。好(はなは)だ惺惺ならず。這の漢猶お両頭に在り。〕吾云く、「生とも道わじ、死とも道わじ」。〔龍吟(うな)りて霧起り、虎嘯えて風生ず。帽を買うに頭を相(はか)る、老婆心切。〕…

 「惺惺」は「心が澄み切っていてさといさま、ウグイスの澄み切った鳴き声」。「惺」は「さとる」で「惺悟」(セイゴ)。

 「両頭」はここでは「生と死のこと」。

 「龍吟霧起」(リョウギンムキ)と「虎嘯風生」はペアで覚えるといいでしょう。合体して「竜(龍)吟虎嘯」(リョウギンコショウ)という熟語もあります。「同類が相応じ従うということ」。龍が吟ずれば雲がわき起こり、虎が嘯けば風が生ずるといわれる。ツーと言えばカー。要は「呼応」です。永遠のライバルである龍と虎のコラボレーションとも言っていいでしょう。自民党と民主党が切瑳琢磨するというなら龍と虎の関係と言っていいでしょうが、相手の中傷合戦に終始する限りは迚もそのレベルにまでは到達していませんね。
「嘯」は岩波文庫では「ほえる」と訓ませているが、漢検四字熟語辞典では「うそぶく」。いずれとも「嘯」の訓読みですのでしっかりと覚えましょう。「虎嘯風生」は「すぐれた人が時を得て奮起すること」。「虎嘯風烈」(コショウフウレツ)、「龍興致雲」(リョウコウチウン)が類義語です。

 「帽を買うに頭を相る」は「相手にふさわしい対応をする」。

 同じく「第五五則の本則」に続けて、次の一節があります。

 …霜云く、「什麼をか作す」。〔随後に婁藪す。〕源云く、「先師の霊骨を覓む」。〔喪車の背後に薬袋を抛つ。当初を慎まざりしことを悔ゆ。你什麼を道うぞ。〕霜云く、「洪波浩渺、白浪滔天、什麼の先師の霊骨か覓めん」。〔也た須らく他の作家に還して始めて得し。群を成し隊を作して什麼か作ん。〕雪竇著語して云く、「蒼天、蒼天」。〔太だ遅し。賊過ぎし後に弓を張る。好し与に一坑に埋却せん。〕源云く、「正に好し、力を著くるに」。…

 「婁藪」(ロウソウ)は「あれこれ詮索すること」。藪の中でずるずる物を引っ張る。

 「覓む」は「もとむ」で「求めること」。音読みは「ベキ」。「騎驢覓驢」(キロベキロ)はお忘れなく。。

 「喪車の背後に薬袋を抛つ」の「喪車」は「葬車」とも書き、棺を載せて運ぶ車のこと。「棺を乗せて運ぶ車の後に、薬の入った袋を下げる、転じて、間に合わないことの喩え、もう手遅れであること」。死体になって霊柩車で運ばれて火葬場に行った頃になって、病気に効く薬を持って来ても何にもならないことから。這の成句はどこかで見た記憶があったのですが、出典が分からなかった。成語林にも記載がありませんでしたが、「碧巌録」だったんですね。「抛つ」は「なげうつ」ですが、「懸ける」とも言うようです。「ヤクタイ」は「益体」ではないことに留意しましょう。

 「当初を慎まざりしことを悔ゆ」は「後悔先に立たず」。

 「蒼天」は「ああ」と訓ませ、歎息を表す感歎詞。「やれ悲しや」。

 本日のmixi日記転載四字熟語は次の通りです。


★「隋侯之珠」(ズイコウノタマ)、「隋珠弾雀」(ズイシュダンジャク)


 前者は「貴重な宝玉、天下の至宝」で、後者は「用いるものが適当でない譬え。また、得るところが少なく失うことが多い譬え」。出典は「荘子・譲王」で「今ここに人あり。隋侯之珠を以て千仞の雀を弾たば、世は必ずこれを笑わん。是れ何ぞや。則ち其の用うる所の者重くして、要むる所の者軽ければなり。夫れ生は豈に特に隋侯の重きのみならんや」。註釈によりますと、隋侯之珠は「伝説的な名珠で、明月の珠。隋侯が大蛇の傷を助け、その恩返しで得られたという(淮南子)」。荘子が謂うには、その明珠を弾き玉にして、千仞もの高さにいる雀をうったとしたら、世間の人々は笑いものにするだろう。どうしてか?彼が手段として用いたものが大変貴重なもので、目指して求めたものが詰まらない物だからだ。そもそも、命とは、とても隋侯之珠どころではないぞ、もっともっと貴重なものだ。本末転倒ということでしょう。手段がどんなに立派でも目的が賤しければ詰まらない。


★「青銭万選」(セイセンバンセン)


 すぐれた文章のこと。漢検四字熟語辞典によると、青銅製の銭は一万回選び出しても他と間違えられることがないように、何度試験を受けても必ず合格するような優れた文章のことを指している。註釈にはありませんが、あの難関試験の「科挙」のことなのでしょう。類義語には「椽大之筆」(テンダイノフデ)。「青銭」は青銅製の銭。
 「セイセン」は「精線」「旌旃」「盛饌」「腥羶」「精選」「聖戦」「聖泉」などが浮かび、「バンセン」は「蕃船」「盤饌」「槃旋」「番線」などが浮かぶ。意味を考えましょう。青銅製の銭は、一万回選んでも分かる。鐚銭ではないから。漢検1級の試験もそうでしょう。ちゃんとやった人は一万回受けても一万回受かる。


★「篳路藍縷」(ヒツロランル)


 おおいに苦労して働くこと。「篳」はいばら・しばのことで、「篳路」は粗末な車のこと。「藍縷」はぼろの着衣。出典は「春秋左氏伝・宣公十二年」で、創業期の艱難辛苦を表わした言葉です。「篳篥」(ヒチリキ)は読むのは当然、書けるようにしましょう。四字熟語辞典にはないが「篳門閨竇」(ヒツモンケイトウ)というのも見つかりました。柴竹の柴折戸と粗末な潜り戸。つまり、まずしい家の門、転じて貧乏生活の象徴。「竇」が難しい。「あな、くぐりど」のこと。「弊竇」(ヘイトウ)という熟語もある。「藍縷」は「襤縷」「襤褸」の方が一般的。


★「水到渠成」(スイトウキョセイ)→「碧巌録」で既出です

 学問を極めると自然に徳も備わるということ。また、物事は時期がくれば自然に成就するということ。「渠」は「溝、掘割」。水が流れると自然と溝ができるということ。蘇軾の書簡文が出典。


★「匪石之心」(ヒセキノココロ)


節操が固く何事にも動じない堅固な心の譬え。ころころ転がる石とは違い、うつろい変わることのない心の意。「匪」は「非」と同じ意。類義語は「鉄石の心」「鉄腸石心」。出典は「詩経・邶風・柏船」で「我心匪石 不可転也 我心匪席 不可巻也」のうち、「我が心は石にあらざれば、転がすことなかれや」の部分。やはりここでも詩経が出典。1級受験者にとっては「詩経」の学習は必須ですな。

「千鈞の弩は鼷鼠の為に機を発せず」と「方木円孔」=「碧巌録」で四字熟語抔

 本日の「碧巌録」は、「千鈞の弩は鼷鼠の為に機を発せず」(センキンのドはケイソのためにキをハッせず)と「方木円孔」(ホウボクエンコウ)。

 「第四四則の禾山、解く鼓を打つ」の「評唱」に次の一節があります。

 …平便ち打つ。所以に道う、「一に石を拽き、二に土を般(はこ)ぶ、機を発するは、須是らく千鈞の弩(おおゆみ)なるべし」と。雪竇は千鈞の弩を以て此の話に喩えて、他の為人(いにん)の処を見せしめんと要(ほっ)す。三十斤を一鈞と為す、一千鈞は則ち三万斤なり。若是獰龍虎狼の猛獣ならば、方(はじ)めて此の弩を用う。若是鷦鷯小可の物ならば、必ず軽(かろがろ)しく発すべからず。所以に「千鈞の弩は、鼷鼠の為に機を発せず」と。

 「鷦鷯」(ショウリョウ)は「みそさざい」。小型の鳥の代表です。翼長約5センチ。一夫多妻。読むのは当然、やはり書けるようにしておきましょう。

 「小可」は「ちんけなもの」。

 「千鈞の弩は、鼷鼠の為に機を発せず」は、成語林に記載がありますが、「発せず」ではなく「発(はな)たず」となっています。「弩」は「石弓」で、「たいそう重い石弓は、小さなはつかねずみを射るためには使わない意から、大きな目的を持ってそれを成し遂げようとしている者は、細かいことには気持ちを動かすことはないというたとえ」とあります。出典は「三国志・魏志・杜襲伝」。「大行は細謹を顧みず」が類義句。。。ちょっと違うか。「鼷鼠」(ケイソ)は「はつかねずみ」ですが、「鼷」は配当外。「千鈞」(センキン)は、非常に重いもののたとえ。「千金」(大きな価値)と書き誤らないような注意が必要です。例えば、

 「センキンの裘は一狐の腋に非ず」
 「センキンは死せず百金は刑せられず」
 「センキンの珠は必ず九重の淵の而も驪竜の頷下に在り」
 「センキンも船を得ば則ち浮かぶ」
 「センキンの子は盗賊に死せず」
 「センキンの重きを鳥卵の上に垂る」
 「センキンの弩を以て潰癰を射る」

 それぞれ「千金」か「千鈞」が当て嵌まります。価値なのか、重さなのか。考えながら入れてみましょう。答はご自分でお調べください。成語林をお持ちなら、P608~609で。

 次に、「第四八則 王太傅、茶を煎ず」の「頌」に次の一節が見えます。

 【頌】 来問は風を成すが若きも、〔箭虚しくは発せず。偶爾(たま)たま文を成す。不妨(なかなか)に要妙なり。〕機に応ずること善巧に非ず。〔泥団を弄する漢、什麼の限りか有らん。方木を円孔に逗(い)る。不妨に作家に撞著れり。〕悲しむ堪(べ)し独眼龍、〔只だ一隻眼を具し、只だ一橛(いっけつ)を得たり。〕曾て未だ牙爪を呈せず。〔也た牙爪の呈すべき無し。什麼の牙爪とか説わん。也た他を欺り得ず。〕牙爪開かば、〔你(なんじ)還(は)た見るや。雪竇却って些子(すこし)く較(たが)えり。若し恁麼の手脚(てなみ)有らば、茶炉を踏倒せよ。〕雲雷を生ず、〔尽大地の人、一時に棒を喫せん。天下の衲僧、身を著く処無し。旱天の霹靂。〕逆水の波幾回をか経たる。〔七十二棒、翻って一百五十と成る。〕

 「善巧」は「ゼンギョウ」と読むことに注意しましょう。巧みに誘導すること。1級配当四字熟語に「善巧方便」(ゼンギョウホウベン)というのがあって「機に応じた方法にきわめて巧みなこと、また、その方法、仏が衆生を救うとき相手の素質や性格に応じて巧みに方法を講ずること」。どこが1級配当かというと「巧」を「ギョウ(キョウ)」と呉音読むからです。「挙一明三」(コイチミョウサン)も1級配当。

 「泥団を弄する漢」は「泥のかたまりをひねくりまわすやから」。

 「方木を円孔に逗る」は「角材を丸い穴に嵌め込もうとする、甚だしい勘違い・見当違いのこと」。漢検四字熟語辞典には「円孔方木」として掲載されています。類義語に「円鑿方枘」(エンサクホウゼイ)があり、「物事がうまくかみあわないことのたとえ」。「鑿」は「穴」、「枘」は配当外で「ほぞ、突起部分」。「逗」は「いれる」。

 「」は配当外で「くい、くさび」。

 「牙爪」は「きばとつめ、転じて、防禦の道具」。

 「旱天の慈雨」ならぬ「旱天の霹靂」。

 本日のmixi日記転載四字熟語は次の通りです。

★「尋章摘句」(ジンショウテキク)


 細かいところに気を取られ、大局的な物の見方ができないこと。「尋章」は一章のことを考える意、「摘句」は一句を取り出すこと。文章や詩歌の一章一句の細部にこだわり、全体の趣意の理解が疎かになる愚を説いています。「章を尋ね、句を摘む」と訓読する。出典は「三国志・呉書・呉主権伝・注」。「尋言逐語」(ジンゴンチクゴ)、「滞言滞句」(タイゴンタイク)が類義語。「矯角殺牛」(キョウカクサツギュウ)も似た意味か。要するに、何事をやるにしても大局観が必要なんですよね、細部は後からついて来るくらいの大胆さが必要でしょう。漢字検定の勉強もそう、所詮、「1級合格」などは「章」であり「句」に過ぎません。もっと先には大きな物があるのです。細部にこだわっては大局を見失うことを改めて誡めとして課したいと思います。


★「参差錯落」(シンシサクラク)、「参商之隔」(シンショウノヘダテ)


 「シン」と読む「参」の読みがポイント。1級配当の世界では基本ですな。「差」も「シ」で難しい。いずれも「ちぐはぐでふぞろい」という意味。「参差」は、長短入り交じって一緒になるさま。「参商」は、オリオン座の三つ星である「参座」とさそり座のアンタレスを含む三つ星である「商座」のこと。いずれも西と東に遠く離れているので、というより夏と冬の星座なので、同時には天に現れない。転じて、親しい人と遠く離れてあわないでいること、また夫婦や兄弟が別れ、仲違いをしている譬え。杜甫の「衛八處士に贈る」の冒頭、「人生相見ざること、動もすれば参と商との如し」から。


★「塵飯塗羹」(ジンパントコウ)


 実際には何の役にも立たないもの、取るに足らないもの。子供の飯事と遊びの飯と泥のあつもの(吸い物)の意。出典は「韓非子・外儲説・左上」の「夫れ嬰児の相い与に戯るや、塵を以て飯と為し、(つち)を以て羹と為し、木を以てシ(裁の衣が肉)と為す。然れども日晩るるに至れば、必ず帰りてショウ(食篇に驤の右側)するは、塵飯塗羹は以て戯るべきも、食らうべからざればなり」。いったい、子供たちが一緒に遊ぶときには、塵をご飯とし、泥土を汁物とし、木切れを肉の切り身とするものだ。しかし夕方になると、必ず家に帰って食事をとるのは、塵のご飯や泥土の汁では遊べても実際には食べられないから。まぁ、当たり前のことで、それほど面白いことを言っているわけではありません。遊びと実際をごっちゃにするなということ。古の教訓はそれはそれで耳に聞こえはいい。しかし、今の政治に当て嵌めようとしても限界がある。何でもかんでも応用を利かさずにそのまま使おうとするのは止めましょう。


★「剽疾軽悍」(ヒョウシツケイカン)


 すばしこくて強いこと。「剽疾」はすばやいこと、「軽悍」はすばやしくたけだけしいこと。「ケイカン」は「勁悍」もある。「悍」は「あらい、おぞましい」とも読む。「悍驕」(カンキョウ)、「悍室」(カンシツ)=「悍妻」(カンサイ)、「悍馬」(カンバ)、「悍婦」(カンプ)、「悍勇」(カンユウ)、「悍吏」(カンリ)、「悍戻」(カンレイ)、「精悍」(セイカン)など多くの熟語がある。それぞれ意味はそんなに難しくはないのでしっかりと押さえましょう。


★「謬悠之説」(ビュウユウノセツ)


 でたらめで取りとめのない考え方。「謬悠」はいつわり間違って、取りとめのないこと。類義語は「荒唐無稽」(コウトウムケイ)。出典は「荘子・天下」の「荘周、其の風を聞きてこれを悦び、謬悠の説、荒唐の言、端崖なきの辞を以て、時に恣縦にして党せず、奇を以てこれを見ざるなり」。荘周はその伝承(むかしからの道術)を耳にしてこれを信奉し、取りとめのない弁説や、大袈裟な議論や、常識外れの言葉使いを操って、其の時其の時で自由に振る舞いながら、一派に偏らず、一面的な見方を避けた。


★「氷炭相愛」(ヒョウタンソウアイ)

 世の中にありえないことの譬え。また、友人同士が互いに戒め合うことの譬え。四字熟語辞典では、氷は炭火によって融け、炭火はその水によって消える。この両者が愛し合うことはあり得ない。また、氷は炭火によって融け本性である水に復し、炭火は水によって燃え尽きようとするのを消し止め炭としての本性を保てることから、相反するものが調和し性質を保持する譬え。また、友人同士がお互いに特性を生かして助け合うことの譬え。と、いささかこじつけ気味の小難しい解説が載っていますが、要は氷を炭は共に、永久に一緒にいられるわけはない。どちらかがいればどちらかが消え、しかし両者共に消えることはない。いわば永遠のライバルですか。


★「助長抜苗」(ジョチョウバツビョウ)


 成長を助けようとして力をかすことがかえって成長を妨げること。「長を助けんとして苗を抜く」とも読む。出典は「公孫丑・上」の「宗人に其の苗の長ぜざるを閔えて之を抜ける者あり。茫茫然として帰り、其の家人に謂りて曰く、今日は疲れぬ。予苗を助けて長ぜしめたりと。其の子趨りて往きて之を視れば、苗は則ち槁れたり」。宗の国の農民がいて、苗の成長を遅れているのを心配して、なんとか早めたいものと一本一本引っ張ってやった。ぐったり疲れて家に帰るなり、「ああ今日は疲れたわい。苗をみんな引き伸ばしてやったから」と家人に話したので、息子が訝り趨って見に行ったところ、苗はすっかり枯れてしまった。気持ちは分からんでもない。苗を引っ張り成長が助長されるならこんなに楽なことはない。しかし、自然の摂理に逆らってまでできることなどはないのだ。無益なばかりかかえって害になる。

「水到渠成」「元正啓祚」「万物咸新」=「碧巌録」で四字熟語

 本日の「碧巌録」からは、「水到渠成」(スイトウキョセイ)と「元正啓祚」(ガンショウケイソ)と「万物咸新」(バンブツカンシン)。

 「第四三則 洞山の寒暑廻避」の「頌」に次の一節があります。ちなみに、これまでも何度も出ている「頌」というのは「仏徳を賛美した教理を説く詩のこと」。「偈頌」ともいい、いわば禅僧版の漢詩のことです。

 【頌】 垂手還って万仞の崖に同じ、〔是れ作家にあらずんば誰か能く辨得(やりこな)さん。何処か園融ならざらん。王勅既に行われて、諸侯道を避く。〕正偏何ぞ必ずしも安排に在らん。〔若是安排せば、何処にか今日有らん。作麼生か両頭渉(かかわ)らざる。風行(ふ)けば草偃し、水到れば渠成る。〕琉璃の古殿に明月照き、〔円陀陀地。切に忌む影を認むることを。且は当頭すること莫れ。〕忍俊たる韓獹(かんろ)も空しく階に上る。〔是れ這回(このたび)のみにあらず。蹉過(すれちが)い了れり。塊(つちくれ)を逐って什麼か作ん。打って云く、你は這の僧と同参なり。〕

 「風行けば草偃し」は「風が吹けば草がなびく、転じて、教えられれば人は自然と徳が身に付くということ」。漢検四字熟語辞典に記載のある「草偃風従」(ソウエンフウジュウ=人民は天子の徳によって教化され、自然とつき従うようになるということ)と類義語か。

 「水到渠成」は漢検四字熟語辞典に記載があり、「学問をきわめると自然に徳もそなわるということ、また、物事は時期が来れば自然に成就するということ」。「渠」は溝・掘割のことで、水が流れてくると、自然に溝ができるという意。類義語は「水到魚行」(スイトウギョコウ)。

 しかし、水が到るまでには相当の時間が掛かることは言うまでもありません。途中にはさまざまな障害が立ち開りますから。目標を高く掲げながらも、結果を追い求めず、只管邁進する。気が付けば目標をクリアしているのはおろか、さらに高みに到達しているのです。自分の歩んだ証としての「渠」ができているのです。他の誰のものでもない。自分が生きてきた足迹。

 「円陀陀地」(エンタタチ)は「月がまんまるいさま」。例の法則「A+B+B+地」のパターンですね。「陀」は梵語のダの音写字。「仏陀」(ブッダ)。ここでは珍しく漢音の「タ」で読んでいる。辞書には見えないが「まるい」という意味があるのかもしれません。


 次に、「第四四則 禾山、解く鼓を打つ」の「評唱」に次の件が見えます。

 …只如(たと)えば、鏡清(きょうしょう)に問う、「新年頭に還(は)た仏法有り也無(や)」。清云く、「有り」。僧云く、「如何なるか是れ新年頭の仏法」。清云く、「元正祚(さいわい)を啓き、万物咸く新たなり」。僧云く、「師の答話を謝す」。清云く、「老僧今日失利す」と。此の答話の似きは十八般の失利有り。

 「元正祚を啓き、万物咸く新たなり」は、「年の始め福運がひらけ、万物がみなあらたまる。あけましておめでとう。新年の挨拶用語」。この二つは、当然ながら四字熟語辞典には載っていません。二つセットで四字熟語というよりは成句として覚えましょう。「元正」は「ガンショウ」と読むのが正しいんでしょうね。正月、一月一日のこと。奈良時代の天皇は「元正天皇」(ゲンショウテンノウ)。「啓祚」はおめでたいこと。「祚」は「さいわい」。「啓く」は「ひらく」。「福祚」(フクソ)=幸福、「丕祚」(ヒソ)=天使の位、「祚胤」(ソイン)=幸せな子孫。「咸新」は、元号に向いているような感じもしますね。

 リセットです。政治の世界でも必要ですが、必ずしも今回の総選挙だけで完了するわけではありません。今回はリセットの始まりと見るべきなのでしょう。

 「失利」は「しくじり」。

 「十八般」は、「昔の中国で、十八種の武芸、転じて、あらゆる武芸」。

 本日のmixi日記転載四字熟語は以下の通りです。

★「銷鑠縮栗」(ショウシャクシュクリツ)


 意気沮喪して縮み上がって懼れること。「銷鑠」は意気銷沈して蘯けること、「縮栗」は縮み上がって竦れること。「韓愈」の文が出典ですが引用は叩えます。「銷」は「けす、とかす」で「銷距」(ショウキョ=武器をなくすこと)、「銷骨」(ショウコツ=讒言)、「銷厭」(ショウヨウ=根絶やしする)、「銷落」(ショウラク=きえてなくなる)、「銷路」(ショウロ=売れ行き)など重要語が目白押し。特に「銷厭」は「厭」を「ヨウ」と読むケースとして注目できます。「鑠」も「とかす」で「鑠金」(シャッキン=金属を鑠かす)。「栗」は「慄」で「おそれて震える」。「栗栗」(リツリツ)、「栗烈」「栗冽」(リツレツ)などがあり。


★「漿酒霍肉」(ショウシュカクニク)、「食前方丈」(ショクゼンホウジョウ)、「炊金饌玉」(スイキンセンギョク)、「太牢滋味」(タイロウノジミ)


 いずれも非常に贅沢な食事をすることの譬え。

 漿酒霍肉は、酒を水(=漿)のように、肉を豆の葉(=霍)のように見ること。酒、肉を共に賤しい人が食べる物と見做すほど贅沢三昧を尽くす。「簞食瓢飲」(タンシヒョウイン)は其の対極にある言葉。

 食前方丈は、食事の席で一丈四方の大きなテーブル一杯に御馳走を並べること。出典は「孟子・尽心・下」で「食前方丈、侍妾数百人なるは、我志を得るとも為さざるなり」。山海の珍味が目の前に一丈四方に並び、給仕の美人が数百人侍ろうとも、自分がよしや大君の志を得ても決してそのような真似はすまい。孟子の志の高さ、欲望に負けず道を極める姿をいう言葉です。

 炊金饌玉は、金を炊いて食物とし、玉を取り揃えて膳に並べるということ。唐詩選の駱賓王の「帝京篇」に出典がありました。「金を炊ぎ玉を饌して鳴鐘を待つ」で、鳴鐘は食事の合図を鳴らす鐘のこと。「饌」は「そなえる」。「饌饋」(センキ)、「饌玉」(センギョク)、「饌具」(セング)、「饌米」(センマイ)などがあり。

 太牢滋味は、祭に供える牛・羊・豕の三種の犠牲(いけにえ)を揃え、栄養のある旨い食事が並んでいるさま。「太牢」は「大牢」でもOK。


★「支葉碩茂」(シヨウセキモ)


 支族まで繁栄すること。本家はもとより分家まで栄えること。一族郎党がみな繁栄を極めること。注意として意味的に「枝葉」でもいいとある。逆に言えば、「枝葉末節」は「支葉末節」でもいいのでしょうね。「碩茂」は大いに茂ることで、子々孫々が繁栄すること。


★「笑比河清」(ショウヒカセイ)


 厳恪でほとんど笑顔を見せないこと。「河清」は「百年河清」にあるように「あのどろどろに濁った黄河の水が澄むこと」。「笑いを河清に比す」と訓読する。つまり、「100年経っても澄むことがない黄河のように笑う」、言い換えれば、「笑うまでに100年もかかる」、要するに、「殆んど笑うことがない」。「ショウヒ」は「湘妃」「消費」ではないが「笑比」はもっと浮ばん。


★「上漏下湿」(ジョウロウカシュウ)


 貧乏なあばら屋のさま。屋根から雨漏り、床から湿気が沸く。「カシュウ」の読みが難しく1級配当になっているが、補説には「カシツ」でもいいとある。なぁんだ、じゃあ問題では出ないわこれ。類義語の「上漏旁風」(ジョウロウボウフウ)の方が出るか。

 出典は「荘子・譲王」で「原憲、魯に居る。環堵の室、茨(ふ)くに生草を以てし、蓬戸(ほうこ)完からず、桑を以て枢(とぼそ)と為し、而して甕牖(おうゆう)の二室は、褐以て塞(ふさぎ)と為す。上は漏り下は湿るも、匡坐して弦歌す」。孔子の門人、原憲が見事に質素を絵に描いた生活を送ったことを描写しています。環堵蕭然甕牖縄枢などの既習四字熟語がぱっと浮びますね。桑蓬之志というのもある。このあと、後輩の子貢から豪華な身なりで訪問を受けるのですが、そこで彼に言った原憲の皮肉たっぷりの台詞が泣かせる。深いわ、この荘子の文章。ぜひご一読を。。。。。

「麒麟頭角」と「懸崖撒手」=「碧巌録」で四字熟語


 本日の「碧巌録」からは、「麒麟頭角」(キリントウカク)と「懸崖撒手」(ケンガイサッシュ)。

 まずは、「第四一則 趙州大死底の人」の冒頭に次の一節が見えます。

 垂示に云く、是非交結の処は、聖も亦た知る能わず。逆順縦横の時は、仏祖も辨ずる能わず。絶世超倫の士と為り、逸群大士の能を顕す。氷凌(こおり)の上を行き、剣刃(やいば)の上を走(ゆ)くは、直下に麒麟の頭角(つの)の如く、火の裏の蓮華の似し。宛も超方なるを見て、始めて同道なるを知る。誰か是れ好手(やりて)の者ぞ。試みに挙し看ん。

 「氷凌の上を行き、剣刃の上を走く」は、「危険きわまりない状況を自在に切り抜けることの譬え」。

 「麒麟頭角」は「めったにないものの譬え」。漢検四字熟語辞典には見えないが、「麟角鳳嘴」(リンカクホウシ)という熟語があります。「非常にまれにしか存在しないものの譬え」とあり、麒麟の角と鳳凰の嘴(くちばし)は共に想像上の存在です。

 次に、同じ第四一則の「評唱」には次の件があります。

 …須是らく大死一番し、却って活して始めて得し。浙中の永光和尚道く、「言鋒若し差わば、郷関万里。直だ須らく懸崖より手を撒(はな)して、自ら肯(うけが)って承当(わがことと)すべし。絶後に再び甦らば、君を欺(あなど)ることを得ず。非常の旨、人焉んぞ廋(かく)さんや」と。趙州の問意は此の如し。投子は是れ作家(てだれ)なれば、亦た他の所問(とい)に辜負(そむ)かず、只だ是れ情を絶し迹を絶して、不妨(なかなか)にして会し難く、只だ面前の些子(しゃし)を露すのみ。所以に古人道く、「親切ならんと欲得せば、問を将ち来たりて問うこと莫れ。問は答処に在り、答は問処に在り」と。若し投子に非ずんば、趙州に一問せられて、也た大いに酬対(うけこたえ)し難からん。只だ他は是れ作家の漢なるが為に、挙著するや便ち落処を知る。頌に云く、…

 「言鋒若し差わば、郷関万里」は、「ことばのポイントがすれちがえば、故郷は万里のかなたに遠ざかる」。

 「懸崖より手を撒して、自ら肯って承当すべし」は「崖っ縁につかまっていた手を放し、己のの事として引き受けよ」。「懸崖撒手」は、漢検四字熟語辞典によれば、「勇気を奮い起こし思い切って事を行うこと、切り立った断崖で手を放す」。「撒」は「はなす」。類義語は「勇猛果敢」「勇往邁進」。

 「」は配当外で「かくす」。本文の「人焉んぞ廋さんや」は「論語・為政」に例文が見えます。音読みは「ソウ」。「索」(ケンサク)、「廋疏」(ソウソ)は「かくされている物やゆくえをさがしもとめる」。「辞」(ソウジ)、「語」(ソウゴ)、「詞」(ソウシ)は「隠し言葉、なぞ」。

 本日のmixi日記転載四字熟語は次の通りです。

★「寿則多辱」(ジュソクタジョク)


 長生きするということは、それだけ恥をかくことも多いということ。「寿(いのちなが)ければ則ち辱(はじ)多し」と訓読する。出典は「荘子・天地」で「男子多ければ則ち懼れ多く、富めば則ち事多く、寿なれば則ち辱め多し」から。古の聖人・尭が辺竟の地で防人から、「あなたさまが長生きするよう、金持ちになるよう、沢山の男の子が授かるようにお願いいたしましょう」と言われ、いずれも断わった。なぜなら、「男の子をたくさん持つと心配事が多い、金持ちになると面倒な出来事が多い、長生きすると辱めをうけるばかりだから」と答えた。この三つは本来の徳を養う上では必要ではない物ばかりだと言うのです。問題になるなら「タジョク」か。果して浮ぶかどうか?


★「出谷遷喬」(シュッコクセンキョウ)


 出世すること。春になると鶯が谷から出てきて(出谷)、高い木に移る(遷喬)。「シュッコク」は「出国」ではないし、「センキョウ」は「戦況」「宣教」「仙境」ではない。出典は「詩経・小雅・伐木」から。「木を伐る音丁丁、鳥の鳴く音嚶嚶、幽(ふか)き谷より、喬き木に遷る、嚶嚶と鳴く声は、其の友を求むる声、彼の鳥を相(み)るだにも、猶友を求めて鳴くに、ましてや人の、友を求めであるべきや、神之を聞し召し、我らに和平を与え給え」。意味は兎も角、「嚶嚶」(オウオウ)は覚えましょう。鳥同士が互に鳴きあうさま。漢検辞典の見出し語にもあります。「エイエイ」ではないので要注意。「遷喬」はそれだけで熟語になっており、「官位が昇進すること」。もちろん、鶯が谷から出てくる「遷鶯」(センオウ)も同義。


★「株連蔓引」(シュレンマンイン)


 株やつるが連なっているように、関係した者が残らず罰せられること。「株連」は一人の罪の罰が数人を巻き添えにすること。「蔓引」は迭いに引き連なること、蔓のように連なること。出典は蘇轍の詩から。「シュレン」は「珠簾」「手練」「聚斂」などが浮ぶが駄目。「マンイン」はもちろん「満員」じゃない。


★「資弁捷疾」(シベンショウシツ)


 生れつき弁舌が巧みで、行動が素早いこと。「資弁」は生れつき弁舌が達者なこと、「捷疾」は素早いこと。出典は「史記・殷紀」。「捷疾」は類義語や対義語でも狙われそう。「駑鈍」の対義語であり、「俊敏」の類義語。


★「獣蹄鳥跡」(ジュウテイチョウセキ)


 世の中が乱れてけものや鳥が横行すること。「獣蹄」はけもののあしあと、「鳥跡」は鳥のあしあと。出典は「孟子・滕文公・上」で「草木暢茂し、禽獣繁殖し、五穀登(みの)らず、禽獣人に逼り、獣蹄鳥迹(本文は迹となっている)の道、中国に交わる」。ここも古の聖人・尭の時代のお話。天下はまだ渾沌として不穏だった。草木はぼうぼうと生い茂り、家畜でなく禽獣ばかり繁殖して、肝腎の五穀はさっぱり稔らず、禽獣が蔓延って人に近づきせまって危害を加え、鳥や獣の足跡がどんなに開けた賑やかな都邑にでも見られるという始末。このあと、尭は舜に位を譲り、この世の平定を委せるのです。責任拋棄かぁ?

★「笙磬同音」(ショウケイドウオン)


 人が心を合わせて仲良くする譬え。各楽器の音が調和すること。出典は「詩経・小雅・鼓鐘」で「鼓鍾欽欽、鼓瑟鼓琴、笙磬同音。以雅以南、以籥不僭」から。「笙」は「ふえ」、「磬」は「うちならし」。鼓も鐘も琴も瑟もみなみな音楽ではそれぞれの楽器が乱れてはいけません。「金声玉振」は孔子が一人で奏でることで無論「笙磬同音」は保たれるでしょうね。

「攢花簇錦」「転轆轆地」「鉄樹開花」=「碧巌録」で四字熟語

 本日の「碧巌録」からは、「攢花簇錦」(サンカソウキン)と「転轆轆地」(テンロクロクジ)と「鉄樹開花」(テツジュカイカ)の三つ。

 まずは、少し戻りますが、「第三八則 風穴の鉄牛の機」の「評唱」に次の件が見えます。

 是の時、五代離乱す。郢州の牧主、師を請(まね)きて夏(げ)を度(すご)さしむ。是の時、臨済の一宗大いに盛んなり。他凡是(およ)そ問答垂示するや、不妨(なかなか)に語句尖新にして、花を攢め錦を簇めて、字字皆な下落(からく)有り。一日、牧主、師を請きて上堂せしむ。衆に示して云く、「祖師の心印、鉄牛の機に似たり。去れば印は住し、住すれば即ち印は破す。只だ去らず住せざるが如きは、印するが即ち是か、印せざるが即ち是か」と。何故ぞ、石人が木馬の機に似ずして、直下(ただち)に鉄牛の機に似たるや。你が撼動(ゆりうご)かす処無し。你が去るや才(いな)や即ち印は住し、你が住するや才や即ち印は破して、你をして百雑砕(ひゃくざつさい)ならしむ。「只だ去らず住せざるが如きは、印するが即ち是か、印せざるが即ち是か」と。看よ他恁麼に垂示するは、「鉤頭(つりばり)に餌有り」と謂うべし。

 「五代」とは「後梁・後唐・後晋・後漢・後周の五朝(九〇七~九六〇)」。

 「花を攢め錦を簇めて」→「攢花簇錦」は「言辞の秀麗さを譬える言葉」。「攢」は「あつめる」、「簇」は「あつまる、むらがる」と訓む。「攢蛾」(サンガ)は「眉を顰めること」。「攢簇」(サンソウ)は「群がりあつまること」。「攢巒」(サンラン)は「むらがる山々」。前の「尖新」は「流行の先駆け、言葉が耳に新しい」。「下洛」は「カラク」と読ませ、「落ち着くところ、決着、物事にきまりがついて終ること」。つまり、師の教えは一々、斬新で見事の一語、そして、腑に落ちるということ。

 「心印」は「極意」。「鉄牛の機」は、「黄河を渡るために鎖をつなぐための銅像のからくり。両岸辺に建てて鎖を通し、船を幾艘もつないで橋の代わりにした。牛は土の神、黄河氾濫をしずめる象徴」。いわば、大波にも動じない精神的支柱ですね。

 「鉤頭に餌有り」とは「釣り言葉。つまり、誘い水」。

 「百雑砕」は「木っ端微塵」。

 さながら「攢花簇錦の如く」とでも言えるかのような、見事な文章を一度でいいから認めてみたいものですね。

 続いて、「第三九則 雲門の金毛の獅子」の「評唱」に次の一節があります。

 這箇は是れ屋裏の事なり、外に向いて卜度(おしはか)ること莫れ。所以に百丈道く、「森羅万象、一切語言、皆な転じて自己に帰して、転轆轆地ならしむ」と。活潑潑の処に向いて便ち道う、「若し擬議尋思せば、便ち第二句に落ち了れり」と。永嘉(ようか)道く、「法身を覚し了らば一物無し、本源の自性天真の仏」と。雲門、這の僧を験す。…

 「屋裏の事」とは「おのれ一心(一身)中のことがら、自分自身の問題」。

 「転轆轆地」は「石臼をごろごろ挽くように、あらゆるものを自在に転化するさま」。「轆」は「車が走る時のごろごろという音の形容、石臼をごろごろ挽く音」。「轆轤」(ロクロ)は「井戸水をくみあげるための装置、滑車」。この熟語は漢検四字熟語辞典には見えませんが、「阿轆轆地」(アロクロクジ)なら掲載されています。同辞典によれば、両者は類義語の関係にあるとの事です。「物事が滞ることなくうまく回転すること、また、次から次へと言葉が発せられること」。「阿」「地」共に助字、「轆轆」は「車が回転する音の形容で、車がくるくる回るように、停滞しないさまをいう」とある。「轆轆」は「漉漉」とも書く。

 面白いのは、これらのように「A+B+B+地」で構成されるパターンの四字熟語が幾つかあるということです。Bは形容詞や副詞、あるいは動詞などを盛り込み、ある物事の状態を表す際に有効ですね。直後に出てくる「活潑潑」も「地」をつけて「活潑潑地」(カッパツハッチ、カツハツハッチ、魚が元気に飛び跳ねるさま)という言い方もあります。既に取り上げた「甜蜜蜜地」(テンミツミツジ、甘い言葉が連ねられている様子)。変り種では「膿滴滴地」(ノウテキテキジ、膿がたらたらと滴り落ちるさま、これも「碧巌録」に出てくる)といったちょっと気色悪いのもあります。

 創作四字熟語ができるかもしれません。「洟滴滴地」(イテキテキジ、青ばながびろ~ん)、「辣辛辛地」(ラツシンシンジ、激カラ中華)、「涙流流地」(ルイリュウリュウジ、号泣するさま)…

 さらに、「第四〇則 南泉、夢の如くに相似たり」の冒頭に次の件があります。

 垂示に云く、休し去り歇し去れば、鉄樹花を開く。有りや有りや、黠児落節す。直饒(たとい)七縦八横なるも、他の鼻孔を穿つを免れず。且道(さて)、「言+肴」訛(ごうか)什麼処(いずこ)にか在る。試みに挙し看ん。

 「休歇」(キュウケツ)は「やめること、けりをつけること」。「歇」は「やめる」「やすむ」と訓む。

 「鉄樹開花」(テツジュカイカ)は、「鉄に木に花が咲くこと、転じて、常識を超えた奇跡が起きること」。これは漢検四字熟語辞典に記載あり。「物事の見込みがないこと」とややネガティブな意味となっています。「鉄樹」は鉄でできた木、また、60年に一度、丁卯(ひのとう)の年にだけ開花するといわれる珍木。鉄の木に花は咲かないし、60年に一度というのは、めったに来るものではないことから。類義語に「雄鶏生卵」(ユウケイセイラン)。

 「黠児」(カツジ)は「わるがしこい奴」。「黠」は「わるがしこい」と訓む。「黠獪」(カッカイ)、「黠慧」(カッケイ)、「黠智」(カッチ)、「黠奴」(カツド)、「黠虜」(カツリョ)、「黠鼠」(カッソ)などの熟語があり、いずれも悪賢く、ずる賢い人間を指しています。「落節」は「しくじること」。

 日常会話で「そんなのあり得ないよ」というフレーズはよく使うと思いますが、類義語だからといってその代わりに今度、「のりぴーが起訴されないなんて言う奴がいるが鉄樹開花の確率じゃないか」と言ってみることはお勧めしません。また、もうちょっと分かりやすい系で「雄鶏が卵を生むようなものだね」と言ってもいいですが、やはりこれも浮くこと必定でしょう。。。


本日のmixi日記転載四字熟語は次の通りです。

★「浮家泛宅」(フカハンタク)、「浮花浪蕊」(フカロウズイ)、「夫家之征」(フカノセイ)、「浮瓜沈李」(フカチンリ)

 意味は順に「船の中に住まうこと、放浪する隠者の生活」、「取り得のない平凡なさまの譬え」、「中国周代の税金の一つ、民衆で一定の職に就いていない者に罰金として課した、夫家は夫婦、征はとり立てること」、「夏の優雅な遊び、瓜を浮かべて李を沈む」。バラエティに富んでいますね。どうしてこれらを並べたかはお分かりですな、「フカ」シリーズということで。これ難しいですよ、「ふか泛宅」「ふか浪蕊」「ふか之征」「ふか沈李」。。。。「浮家」「浮花」「浮瓜」、「夫家」。。。漢検四字熟語辞典P414を参照してください。


★「伏寇在側」(フクコウザイソク)


 身辺の注意を怠らず、言動も慎むべきだということ。「伏寇」は、隠れている盗賊、「在側」は、すぐ側。油断大敵が類義語だそうです。出典は「管子・君臣・下」で「牆に耳あり、伏寇在側らに有り」とあるそうです。「寇」は「あだ」。寇賊、寇略、寇讐、寇敵、寇盗、寇難、寇略、寇掠、寇偸、倭寇、元寇。藉寇兵(コウニヘイヲカス=敵に塩を贈る)は史記に見える故事成語。


★「皮裏陽秋」(ヒリノヨウシュウ)


 「皮裏春秋」(ヒリシュンジュウ)ともいう。口に出しては言わないで、内心で人を讃めたり、批判したりすること。「陽秋」は「春秋」の別称で五経の一つ。毀誉褒貶のこと。孔子が厳正な態度で歴史を批判し、言葉一字一字に深い意味をもたせ、暗に賞讃や批判の意をこめた歴史書のこと。「皮裏」は、心中にひそめること。「春秋筆法」(シュンジュウノヒッポウ)や「一字褒貶」(イチジホウヘン)、「春秋筆削」(シュンジュウノヒッサク)、「微言大義」(ビゲンタイギ)、「微言精義」(ビゲンセイギ)、「意味深長」(イミシンチョウ)など多くの類義四字熟語がある。「ヒリ」が出てくるかどうかがポイントでしょう。「鄙俚」ではないよ。

★「衆酔独醒」(シュウスイドクセイ)


 周囲だけはみな道を外れており、自分だけが正しいということ。「衆人皆酔いて我独り醒む」と訓読する。忘年会シーズン闌ですが、下戸にとっては辛い季節。酔っ払いは得だわ、酔ったもん勝ちですよね。独りだけ酔えない辛さ。彼らは祭の後は何があったか、何をしたかは覚えちゃいまい。。。。出典は「史記・屈原伝」。汨羅に入水した楚の屈原が讒言に遭い、いまはの際に吐いた言葉。「シュウスイ」は「秋水」「拾翠」でなく、「ドクセイ」は「毒性」ではない。


★「釈根灌枝」(シャクコンカンシ)、「捨根注枝」(シャコンチュウシ)、「舎本逐末」(シャホンチクマツ)


 いずれも「大切でない部分に心を奪われて、物事の根本を忘れること。結果だけを優先する愚を誡める句」。「根を釈(す)てて枝に灌(そそ)ぐ」、「根を捨てて枝に注ぐ」、「本を舎(す)てて末を逐う」とそれぞれ訓読する。枝も末もいい、しかし、根を本があってのものであることを忘れてはいけない。注意すべきは「釈」「捨」「舎」でいずれも「すてる」と読む。ほかには「捐」「棄」「擲」「拌」「撤」「遺」「委」も「すてる」。孔子を祠る行事に「釈奠」「舎奠」(セキテン)というのがありますが、これは「供物をおいてまつるという意味」。この場合の「釈」「舎」は「おく」。


★「射石飲羽」(シャセキインウ)

 精神を集中して必死で事にのぞめば、どんな困難なことでもできるということ。精神一到何事かならざらん。「射石」は矢で石を射ること、「飲羽」は矢の部分まで深く突き刺さる意味。全般に5級までの漢字ばかりで簡単なんですが、何となくイメージが浮び難い。「シャセキ飲羽」あるいは「射石インウ」と出されてそれぞれ浮ぶかどうか。そう、音とイメージです。「シャセキ」「インウ」。。。「赭石」「霪雨」。。。1級配当を意識すればこうなるが、意味が通らん。石を射て羽まで飲む。

「菽麦不分」「豁然大悟」「両采一賽」=「碧巌録」で四字熟語


 本日の「碧巌録」からは、「菽麦不分」(シュクバクフブン)と「豁然大悟」(カツゼンタイゴ)と「両采一賽」(リョウサイイッサイ)の三つ。

 まずは、「第三八則 風穴の鉄牛の機」の「評唱」に次の一節が見えます。

 …穴云く、「若し風化に触れずんば、焉ぞ古仏の心を明めん」。清云く、「何をか古仏の心と名づく」。穴云く、「再び許め允容(ゆる)す、師は今何か有る」。清云く、「東来の衲子(のっす)、菽麦をも分たず」。穴云く、「只だ以(や)まずじて以むことを聞く、何ぞ抑(しい)て以めて以むことを得ん」。清云く、「巨浪湧くこと千尋なるも、澄波水を離れず」。清云く、「一句流れを截ちて、万機寝削す」と。穴便ち礼拝す。清、払子を以て点ずること三点して云く、「俊なる哉、且は坐して茶を喫せよ」と。

 「衲子」(ノウス、ノッスは音便)は「僧侶」。「衲」は「ノウ」(呉音)または「ドウ」(漢音)と読み、僧侶が纏うころものこと。転じて、僧侶自体、あるいは僧侶が自らを称する場合に用いる。「衲衣」は「ノウエ」で「僧が着る衣、転じて、僧侶のこと」。「衲被」は「ノウヒ、ドウヒ」で「つぎはぎのふとん、転じて、他人の文の語句をつぎはぎしてつくった文」。

 「菽麦を分たず」は「菽麦不分」で「まめと麦の区別がつかない、非常に愚かなこと」(「左伝」成公一八年)。成語林によると、「菽麦を弁ぜず」といい、「非常に愚か者の譬え」とある。

 「払子」は「ホッス」で「僧が持ち、虫やほこりなどを払うための道具。獣の毛をたばねて柄をつけたもの」。払麈(ホッシュ)、麈尾(シュビ)ともいう。

 続いて、同じ「評唱」に次の件が見えます。

 …穴、此れより服膺して、南院の会下に在って園頭(えんじゅう)と作る。一日、院、園裏に到り問うて云く、「南方の一棒、作麼生(いかに)か商量する」。穴云く、「奇特の商量を作す」。穴云く、「和尚此間(ここ)にて作麼生か商量する」。院、棒を拈(と)り起(あ)げて云く、「棒下の無生忍(むしょうにん)、機に臨んでは師にも譲らず」と。穴、是に於て豁然として大悟す

 「園頭」は「菜園・畑の管理者、持ち主」。

 「南方の一棒」は「鏡清の指導法のこと」。

 「棒下の無生忍、機に臨んでは師にも譲らず」は「真理を悟った者は、たとい師の棒を受けても引き下がりはしないということ」。ここでいう「無生忍」とは、「無生法忍」の略で「一切の物が生滅変化を超えているという真理を体得すること」。

 「豁然大悟」は四字熟語辞典に掲載有り。「迷いや疑いがにわかに解けて、真理を悟ること」とあり、「豁然」の「豁」は「からっと開ける」、「大悟」は「大いに悟る、悟りを開く、迷いを脱して真理を悟ること」。「豁」じは「ひらける」とも訓む。

 さらに、「第三九則 雲門の金毛の獅子」の「本則」に次の一節があります。

【本則】 挙す。僧、雲門に問う、「如何なるか是れ清浄発身」。〔「土+盍」圾堆頭(こうそうたいとう)に丈六の金身(こんじん)の斑斑駁駁なるものを見る、是れ什麼ぞ。〕門云く、「花薬欄」。〔問処真ならずして、答え来たること鹵莽なり。「祝+土」著磕著(そくじゃくこうじゃく)、曲は直を蔵さず。〕僧云く、「便ち恁麼(さよう)にし去る時、如何」。〔渾崙に箇の棗を呑む。放憨(ほうかん)して作麼。〕門云く、「金毛の獅子」。〔也た褒也た貶。両采一賽。錯を将て錯を就す。是れ什麼たる心行(しんぎょう)ぞ。〕

 「清浄発身」(ショウジョウホッシン)は「煩悩の穢れを離れた真理そのものとしての仏」。

 「「土+盍」堆頭」は「ごみの山」。両字とも配当外で「ごみ」。

 「斑斑駁駁」は「まだら模様の形容」。

 「花薬欄」は「柵で囲った満開の芍薬の花」。

 「鹵莽」(ロモウ)は「いいかげん、粗略」。

 「「祝+土」著著」は「突いたり叩いたりして、いじくりまわす」。

 「渾崙呑棗」は既出。丸呑みの愚行を戒める。

 「放」は「おろかさを見せること」。「」は配当外で「おろか」。「態」(カンタイ)は「ぼんやりしている態度」、「嬌」(カンキョウ)は「理性のない女のしつこいさま」、「笑」(カンショウ)は「笑ってはいけないときに笑うこと」。

 「両采一賽」は漢検四字熟語辞典には掲載無し。「一つの勝負に二つの目を張ること、一方に決めなければならないのに、二股を賭けていると批判している」。勝負師としては最も戒めるべき愚行です。答えは一つしかないのだ。縦令外れようとも賭けるべきは一つ。潔さも必要ですよ。「賽」は「さいころ」。「采」は「いろどり」。

 本日のmixi日記転載は次の通りです。

★「左建外易」(サケンガイエキ)


 道理に戻るやり方で勢力や権力を増すこと。また、地方で反乱を起こすこと。「左」は「よこしま・もとる」の意。戦国時代には「右」を尊ぶ風習があった。「左建」はよこしまな方法で勢力を伸ばすこと。「外」は「地方」。「易」は「変える」。「外易」は地方にあって君命を勝手に変えること。「造反無道」(ゾウハンムドウ)もほぼ同義。「左」で始まる熟語は「左遷」が有名ですが、ほかにも「左袵」「左衽」(サジン=襟を右前で着る遊牧民族の風習→漢民族とは逆で卑しむ)、「左袒」(サタン=加担)、「左言」(サゲン)、「左道」(サドウ)、「左文右武」(サブンユウブ=文を卑しみ、武を尊ぶ)、逆もあり「右文左武」(ユウブンサブ)、「左纛」(サトウ=天子の車の左にたてるはたぼこ)。出典は「史記・商君伝」。


★「普天(溥天)之下」(フテンノモト)、「率土之浜」(ソットノヒン)

 この二つは対句、いずれも世界中、国中、全国。合わせて「普天率土」(フテンソツド)ともいう。天の掩う限り、地の続く限り。天子の領土全体をいう言葉。「普天」は大空、「率土」は土地から土地へ続く限り。「溥天」とも書く。「溥」は「あまねし」。出典は「詩経・小雅・北山」で、「溥天の下、王土に非ざるは莫く、率土の浜、王臣に非ざるは莫し」から。「溥洽」(フコウ)、「溥博」(フハク)も押さえておきましょう。「浜」は「ほとり、はて」。


★「作文三上」(サクブンサンジョウ)


 文章の構想を練るのに適した3つの場所。すなわち、馬上、枕上(チンジョウ)、厠上(シジョウ)。馬、枕(まくら)、厠(かわや)。皆さんも、そうではないでしょうか?現代で馬はないので電車での通勤時、寝ているよりは寧ろ、寝られずに輾転反側している時、そして、トイレはいまや洋式なのでゆったりと沈思黙考するには最適でしょう。この四字熟語は問題でるかなぁ?出るとしたら「作文さんじょう」か。「三上」が正解ですが、簡単すぎるかなぁ。出ないか?知らなければ悩みまくるだろうなぁ?参乗、惨状、三条、三畳、三錠、、、なに?三上、とほほ。。。だろうなぁ、きっと。


★「物換星移」(ブッカンセイイ)


 自然界の眺めや時世が変わり改まること。「物換わり星移る」と訓読する。出典は王勃の詩「滕王閣」(トウオウカク)で、たまたま岩波文庫の「唐詩選・上」を見ていたらありました。うれしい。「物換星移度幾秋」(ものかわりほしうつりいくしゅうをかわたりし)で、事物が移り変わり、星が動いて歳月が過ぎる。どれだけの秋がめぐってきたのだろうか。「度」は「わたる」と表外読み。書物を読んでいて知っている熟語なりに邂逅することほど怡然となる瞬間はないですなぁ。それも思いがけずだと一層心に染み入ります、乾いたスポンジが霑うようにじわ~っとね。

★「刺字漫滅」(シジマンメツ)


 長い間人を訪問しない。「刺字」は名刺の字、名刺そのもの。自分の名刺をポケットに入れたまま使わないので、文字が剃り汚れて見えなくなってしまったということ。名刺が有っても使いこなせず、自分の家に引き籠りということでしょうか。人付き合いが苦手なのかもしれません。営業マンには向いていない。出典は「後漢書・禰衡伝」。「しじ」が書けるか?四字、指示、脂膩、鴟峙、支持、師事、私事、死児ではないよ。


★「時雨之化」(ジウノカ)


 いつくしみ深い君主の教化が及ぶことの譬え。ほどよい時に雨が草木を生育させるということ。「時雨」は丁度いいときにふる雨。「茲雨」や「慈雨」「滋雨」でないことに注意しましょう。出典は「孟子・尽心・上」の「君子の教うる所以の者五つ、時雨の之を化するが如き者あり。徳を成さしむる者あり。財を達せしむる者あり。問に答うる者あり。私かに淑艾せしむる者あり。此の五つの者は、君子の教うる所以なり」。君子が人を導くやり方には五つ有る。程よく降る雨が草木を養育するようなやり方、本人の徳性を完成させるというやり方、本人の才能を十分に達成させるやり方、単に質問させて答えるやり方、間接に教えを受けて自分で修養させるやり方。この五つのやり方は君子がそれぞれ本人の個性に応じて教育するのであるというのです。干天の慈雨とは違う。「私かに淑艾」は「私淑」の元となったフレーズです。故事成語問題で狙われそうです。
profile

char

Author:char
不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
言葉には過敏でありたい。
漢検受検履歴
2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

calendar
04 | 2017/05 | 06
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
recent entry
recent comment
category
monthly archive
search form
RSS links
links
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。