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仙人が鶴になって「内助の功」を啓示する?=北宋の蘇軾

今回も鶴つながりでまいります。「玄裳縞衣」(ゲンショウコウイ)という成句がありますが、「玄」は「黒」、「裳」は「もすそ、はかま」、「縞」は「白」、「衣」は「うわぎ」。文字通り鶴の高貴な姿を形容したものです。出典は北宋の官僚詩人、蘇軾(蘇東坡、1036~1101)の「後赤壁の賦」(コウセキヘキのフ)。元豊5年(1082)10月、黄州在住のころの作品。かの有名な「前赤壁の賦」に後れること約3カ月に詠まれました。「賦」というのは、形式にとらわれずに真情を詠む散文的な詩のことです。

是の歳十月の望、雪堂自り歩して、将に臨皐に帰らんとす。二客、予に従いて黄泥の坂を過ぐ。霜露 既に降り、木葉 尽く脱つ。人影 地に在り、仰いで明月を見る。顧みて之を楽しみ、行歌して相答う。

この歳の十月、望月の日、雪堂から徒歩で臨皐亭に帰ろうとして、二人の友人といっしょに、黄泥の坂にさしかかった。霜や露がもう降りて、木の葉はすっかり散り果てている。人の影が地面に映るので、ふり仰いで名月をたしかめ、たがいに見かわしてよろこびあい、歩みつつ歌をうたって唱和した。

已にして嘆じて曰く、「客有れども酒無く、酒有れども肴無し。月白く風清し。此の良夜を如何せん」と。客曰く、「今者の薄暮、網を挙げて魚を得たり。巨口細鱗、状 松江のア)に似たり。顧うに安くにか酒を得る所ぞ」と。帰りて諸を婦に謀る。婦曰く、「我に斗酒有り。之を蔵すること久し。以て子の不時の須を待てり」と。是に於て酒と魚とを携え、復た赤壁の下に游ぶ。

しばらくしてわたしはためいきをもらした。「友人がいるのに酒はなく、酒はなんとかなってもさかながない。月が白くさえ風がさわやかにわたる、このすばらしい夜もこれじゃ台無しだ」。友が言う。「今日の夕暮れ、網をあげたら魚がかかっていました。大きな口にこまかなうろこ、すがたはまるであの松江の鱸です。ところで、酒はどこで手に入れたものですかな」。帰って女房に相談すると、「わたしのところに一斗ばかりの酒があります。ずっと前から仕舞ってあるのです。あなたが急にお求めになることがあるかもしれないと思っておりました」。そこで、酒と魚をひっさげて、またも赤壁の下に遊んだのだ。

江流 声有り、断岸 千尺、山高くして月小さく、水落ちて石出づ。曾ち日月のイ)幾何ぞや。而るに江山 復た識る可からず。予 乃ち衣をウ)げて上る。エ)巉巌を履み、オ)蒙茸を披き、虎豹に踞し、虬竜に登り、栖鶻の危巣にカ)じ、馮夷の幽宮を俯す。蓋し二客は従うこと能わず。劃然として1)チョウショウすれば、草木 震動し、山鳴り谷応えて、風起こり水涌く。予も亦た2)ショウゼンとして悲しみ、3)ショウゼンとして恐れ、4)リンコとして其れ留まる可からざるなり。反りて舟に登り、中流に放ち、其の止まる所にキ)せて休む。

長江は水音をたてて流れ、切り立った崖は千尺、山は高くそびえて、月は小さく見え、水は枯れて岩石がごつごつと突出している。さてもあの日からどれだけの月日が流れたのか、江も山もまるで見おぼえがないとは。わたしはそこで裾をからげて岸に上がり、切り立つ岩を踏みしめ、からまり茂る草むらに分け入り、虎や豹に見紛う岩にうずくまり、虬や竜に似た古木にのぼって、ハヤブサの高みに懸けた巣によじのぼり、水神馮夷の水底にひそけき宮殿を見降ろした。もはや二人の友人もついてこれないようだ。空を切り裂くように口笛を吹いてみると、草木はふるえ、山と谷は共鳴して、風が巻き起り流れは涌き返った。わたしもまたもう声もたてられなくなって悲しみに襲われ、ぞくっとして恐怖を覚えた。寒気がひしと身にしみて、もはやとどまり得ないまでになった。引き返して舟に乗り、流れの中程に漂わせて、行き先は舟に任せ、そのまま休息した。

時に夜将に半ばならんとし、四顧 寂寥たり。適たま孤鶴有り、江を横ぎりて東より来る。ク) 車輪の如く、玄裳 縞衣、5)カツゼンとして長鳴し、予の舟を掠めて西せり。6)シュユにして客去り、予も亦た睡に就く。一道士を夢む。羽衣翩僊として、臨皐の下を過ぎ、予に7)ユウして言いて曰く、「赤壁の遊 楽しかりしか」と。其の姓名を問うに、俛して答えず。「嗚呼噫嘻、我 之を知れり。8)チュウセキの夜、飛鳴して我を過りし者は、子に非ずや」と。道士顧みて笑う。予も亦た驚き悟む、戸を開いて之を視るに、其の処を見ず。

ときに真夜中近く、あたりはひっそりと静まり返っていた。ちょうどそのとき、一羽の鶴が江をわたって東から飛んできた。つばさは車輪のように大きく、くろいはかま・しろいうわぎのすがたで、クゥアと声を引いて鳴き、わたしの舟をかすめて西のかなたに飛び去った。まもなく友人たちは帰り、わたしもねむりに就いた。独りの道士を夢に見た。身に付けた羽衣をひらひらさせて、臨皐亭の近くを通りかかって、わたしに会釈をし、「赤壁のあそびは楽しかったですか」と尋ねる。名前を問うたが、うつむいたまま答えてくれない。「ああ、そうだったのですね。ゆうべ、鳴きながらわたしのところを飛んで行かれたのはあなたでしょう」と問いかけたが、道士は振り返って微笑み返しただけ。わたしもはっと夢からさめた。戸をあけてさがしてみたが、その姿はどこにもなかった。

漢字の問題はそれほどの超難問はありません。いずれも本番で出そうなものばかりを集めてみました。苟も漢字検定1級を志す人ならば、8割は正解してほしいところです。2)と3)の「ショウゼン」のい区別は稍難問かもしれません。

1)チョウショウ=長嘯。声を長く引き伸ばし詩歌を歌う。
2)ショウゼン=悄然。しょんぼり。
3)ショウゼン=肅然。ものさびしい。
4)リンコ=凜乎。りりしいさま。
5)カツゼン=戛然。鶴の鳴き声の形容。
6)シュユ=須臾。たちまち。
7)ユウ=揖。両手を前に組み遜る挨拶。
8)チュウセキ=疇昔。きのう。

ア)鱸=すずき。ここは淡水魚。
イ)幾何=イクバク。どれくらい、いくら。
ウ)摂げて=かか・げて。
エ)巉巌=ザンガン。ごつごつした山が険しくそぼえているさま。
オ)蒙茸=モウジョウ。雑草の生い茂るさま。「茸」は「ジョウ」。
カ)攀じ=よ・じ。
キ)聴せて=まか・せて。
ク)翅=つばさ。


「松江の鱸」は「蓴羹鱸膾」(ジュンコウロカイ)の四字熟語にもなっている「故郷を懐かしく思う心」。晋の張翰が故郷の料理である蓴菜の御吸い物と鱸の膾(なます)のおいしさにひかれて、官を辞して故郷に帰った故事を指しています。「松江」は本邦の「まつえ」ではないので念のため。。。

蘇軾が夢で出会った道士とは、道教の僧侶のことで、ここでは仙人を指していると思われます。そして、実は昨晩飛んでいた鶴の化身だったと蘇軾は考えるのですが、例の崔と李白が詠んだ「黄鶴楼」の伝説にあった黄色い鶴が乗せたのも仙人だったのです。鶴というのは仙人を乗せる神秘的な鳥と言えるでしょう。

この賦を通して全体的に言えるのは、鶴に遭ったのは何らかの前兆としてとらえられており、夢に見た道士は蘇軾に何かを伝えたかったのでしょう。ここからは勝手な妄想ですが、迂生が特に心を引かれたのは、蘇軾の妻が夫のために酒を用意していた機転のよさです。いつかあなたが言ってくるだろうと見越して隠し持っていたって言うなんざ、妻の鑑。いわば「臍繰り」もこのように効果的に使えれば、旦那も一生妻に頭が上がらんですわね。夫が友達にいいところを見せることができたのも、妻の“ナイスプレー”の御蔭と言えるでしょう。くだんの鶴も「奥様を大事になされよ。あなたは到底奥様にはかなわないのだから」と伝言しに来たのかもしれませんな。男子たる者、内助の功にこそ支えられているのはいずこの国も古来、同じかもしれません。此く言う迂生も例に漏れませんなぁ……。
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黄色い鶴よ 俺のためにも舞ってくれ!=盛唐の崔・李白

盛唐の詩人・崔(サイコウ、704~754)に「黄鶴楼」(七言律詩)という詩があります。黄鶴楼にはこんな伝説があります。酒店を営む辛氏のところへ来た奇妙な老人。半年間にわたり毎日、酒を浴びるほど飲んだ後、酒代のかわりに壁に橘の皮で黄色い鶴を描いて去って行った。この壁の鶴、客の歌や手拍子に合わせて舞いを踊る。この評判が口伝てに広まり、客が押し掛け店は大繁盛。そして、十年後。老人が再び訪れ、笛を吹いて鶴に跨り白雲に乗って飛び去った。辛氏は感謝の意をこめて楼を建てて「黄鶴楼」と名付けた―。

その伝説の黄鶴楼に登った作者が、遠く離れた望郷(作者の郷里は北方の汴州=ベンシュウ、今の河南省開封=)の念に居た堪れなくなって詠じています。この詩は唐詩選にも採られており、岩波文庫の「唐詩選(中)」(前野直彬注解)も一部参考にしています。

昔人 已に黄鶴に乗りて去り

此の地 空しく余す黄鶴楼

黄鶴 一たび去って復た返らず

白雲 千載 空しく悠悠

晴川 歴歴たり漢陽の樹

芳草 萋萋たり鸚鵡洲

日暮 キョウカン 何れの処か是なる

煙波 コウジョウ 人をして愁えしむ

●キョウカン=郷関。

ふるさとのこと。この場合の「関」は、関所、入口という意。郷音(キョウオン=御国訛り)、郷邑(キョウユウ=むらざと)。

●コウジョウ=江上。

川のほとり。江渚(コウショ)、江汀(コウテイ)ともいう。

昔 人 已 乗 黄 鶴 去
此 地 空 余 黄 鶴 楼
黄 鶴 一 去 不 復 返
白 雲 千 載 空 悠 悠
晴 川 歴 歴 漢 陽 樹
芳 草 萋 萋 鸚 鵡 洲
日 暮 郷 関 何 処 是
煙 波 江 上 使 人 愁


昔の伝説の中の仙人は黄色い鶴に乗って去った。今、この地には、その伝説を伝える黄鶴楼だけが取り残されたかのようにあるだけだ。黄鶴は仙人を乗せてもう二度と返ってくることはない。ただ白雲だけが千年の昔も今も変わらぬ姿で何のかかわりもなさげに、はるかな大空にぽっかりと浮かんでいる。晴れ渡った長江の向こう岸には、くっきりと漢陽の街の木々が見える。長江の中洲にはかぐわしい花の咲く草が生い茂っている、そう、そこは後漢の文人、禰衡にちなみ鸚鵡洲だ。昔をしのぶうちにもやがてたそがれ。ふとわが故郷はいずこと見やれば、川面に夕靄が立ち籠め、望郷の憂いは一層募るばかりだ。

頸聯の第六句にある「鸚鵡洲」にも多くの伝説が纏わっています。後漢の末、魏の黄祖が、江夏の太守だった時、「鸚鵡賦」を作って名高かった文人禰衡をここで暗殺した故事があります。ときに禰衡は26歳の若さでした。

漢詩鑑賞事典(P124)によると、「前半三句で黄鶴を三度繰り返す。心地よいリズムが生まれ、読者はそのリズムに乗って伝説の幻想世界へとひきこまれてゆく。ひきこんでおいてフッと白雲を提示する。白雲は人の世のできごと、栄枯盛衰、そんなものとまるで無関係にポッカリ浮かんでいる。なんとなくはかない気分。そして目を転ずると、くっきりと漢陽の街(遠景)や鸚鵡洲(近景)が見える。自然に禰衡(デイコウ)やら『楚辞』の王孫やらがオーバーラップして甘い感傷が漂う。あたりはいつのまにかたそがれ時、たちこめるもやの向こう、西の空を眺めるうち、甘い感傷は望郷の念いに変わる。読者を心にくいまでに時空の間に遊ばせる詩である」との鑑賞が見えます。

伝説によれば、かの詩仙・李白(701~762)も黄鶴楼に登りましたが、先輩詩人の崔の作品に勝る者は到底作れないとして、筆を投じて詩を作ることを諦めたそうです。それでも、別の先輩、孟浩然(689~740)の送別の辞をここ黄鶴楼で詠んでいます。広陵とは今の江蘇省揚州、孟浩然が武昌から揚州へと、長江を下る旅に出るのを見送るのです。

「黄鶴楼送孟浩然之広陵」(黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る)

コジン西のかた黄鶴楼を辞し

烟花 三月 揚州に下る

孤帆の遠影 ヘキクウに尽き

唯見る 長江のテンサイに流るるを

●コジン=故人。

中国では、古くからの親友を指すことが多い。

●ヘキクウ=碧空。

あおく澄んだ空。碧天(ヘキテン)、碧霄(ヘキショウ)ともいう。

●テンサイ=天際。

そらのはて。空の遠く彼方。天涯ともいう。

故 人 西 辞 黄 鶴 楼
烟 花 三 月 下 揚 州
孤 帆 遠 影 碧 空 尽
唯 見 長 江 天 際 流


わが友、孟浩然は西のほう、武昌にある黄鶴楼に別れを告げ、かすみと花に包まれた春三月、揚州へと川を下っていく。ただ一つ遠くに見える帆影は、青空の中に消え失せ、あとにはただ、長江の水が空の果てまでも流れているばかりだ。

揚州は当時の江南地方で一、二を争う歓楽街でした。晩唐の杜牧(803~852)が「遣懐」で「十年一覚揚州夢」と詠じた「揚州の夢」という句があります。これは、彼が若い頃赴任した揚州の妓楼に入り浸って酒と女で遊びまくったことを指し、そのまま「かつて若かりしころに豪遊した思い出」をいう言葉として残っています。「あの頃は若かった」と青春時代を回想して感傷に浸った、これも杜牧の「鬢糸茶烟(ビンシサエン)の感」も思い出しますね。

すこし横道に反れました。閑話休題。孟浩然は生涯、仕官することなく在野で一生を終えた詩人でした。彼こそ梲が上がらなかったと言っていい。そんな彼が50歳を間際にして一発勝負に出ようというのでしょうか、揚州に行くという。李白も一時の栄光はあったものの、挫折から放浪の身にありました。そんな者同士が黄鶴楼を舞台にして見送り、見送られるという何とも渋いシーン。雄大な長江に一艘の小舟が浮かび、きらきらとした陽光の中で見えなくなっていく。。。唐代の詩ならではの、華やかさと哀しさが「ヤヌスの鏡」のように相半ばしています。

崔と李白の二つの詩ともにキーワードは「黄鶴楼」なんですよね。この楼に立つ人々は、金持ちにしてくれる鶴の存在を夢見るのです。ああ、おれのためにも鶴が舞ってくれないものか。そうなれば一生遊んで暮らせるのだ。。。心に蹉跌を持つ詩人たちの目には「幻の黄色い鶴」が見えるばかり。雄大な長江の流れだけが今も昔も変わらない「現実」なのか―。気がつけば老いさらばえている自分がいる。結局鶴は舞ってくれなかったのだと。。。。

「梅」と結婚したフェティシズムの極致=北宋の林逋

「梅妻鶴子」という言葉をご存じか?生涯妻を娶らず鶴を飼って、西湖畔に梅の木を植えて廬を構え、一生仕官しなかった詩人がいました。それが北宋の初期の時代の林逋(967~1028)です。宇野直人氏のNHKラジオテキスト「漢詩をよむ 漢詩の来た道(宋代前期)」(P51)には「梅を愛した隠逸詩人」と紹介されています。その代表作であり、梅の花を玩わうならこの一品というのが「山園小梅」(山園の小梅、七言律詩)。本日は梅のスペシャリスト、林逋を取り上げます。

衆芳 揺落して独り暄妍

風情を占め尽して小園に向ふ

ソエイ 横斜 水清浅

アンコウ 浮動 月黄昏

霜禽 下らんと欲して 先づ眼を偸み

粉蝶 如し知らば 合に魂を断つべし

幸ひにビギンの 相狎る可き有り

須ひず 檀板と金尊とを


●暄妍=ケンケン。

暖かで景色が美しい。「暄」は「あたたかい」、「妍」は「うつくしい」。「ケンケン」は「謇謇、拳拳、喧喧、娟娟、娟娟、慊慊、捲捲、涓涓、眷眷、虔虔」などの同音異義語があります。これらを区別するのは意外と難しい。暄和(ケンワ=あたたかくのどか)、暄寒(ケンカン=あたたかさと、寒さ。寒暄=カンケン=ともいい、時候の挨拶)、暄煦(ケンク=あたたかい、暄暖=ケンダン=)。

●ソエイ=疎影、アンコウ=暗香。

この二つの言葉はこの詩の「胆」です。ともに梅の木や花を形容する代名詞として現在も使われています。二つ合わせて「暗香疎影」という四字熟語にもなっています。「月光などに照らされて疎(まば)らに映る木々の影」と「暗闇に漂う花の香り」。

●ビギン=微吟。

小さな声でしんみりと歌うこと。小声で詩歌を口ずさむこと。低唱微吟でお馴染み。「Begin」。微躯(ビク=自分を遜る言葉、微躬=ビキュウ=)、微醺(ビクン=ほろ酔い)、微言(ビゲン=それとなくほのめかすこと)、微行(ビコウ=天子の御忍び)、微子(ビシ=養子)、微時(ビジ=地位や身分が低かった時、微賤の時)、微衷(ビチュウ=ささやかな真心)、微眇(ビビョウ=身分が卑しい、かすかで小さい)、微服(ビフク=身分の高い人が人目につかないように身を窶して出歩く際の服装、しのび姿)、微茫(ビボウ=ぼんやりとしてかすかなさま)、微恙(ビヨウ=軽い病気、微痾=ビア=)、微禄(ビロク=薄給、微俸=ビホウ=)。

●狎る=な・る。

「狎れる」は「なれる」。人と親しくする、近づきになって遠慮をしないようになる、なれなしくする、習慣となる。「したしむ」とも訓む。音読みは「コウ」。狎昵(コウジツ=馴れ親しむ、昵懇=ジッコン=)、狎愛(コウアイ=なれなれしく愛する、身近に置いて可愛がる)、狎客(コウカク=親しく付き合っている客)、狎玩(狎翫=コウガン、なれなれしくしてもてあそぶ)、狎近(コウキン=なれて近づく)、狎恰(コウコウ=遠慮もなしに、からだをくっつける、押し合いへしあいする)、狎邪(コウジャ=なれなれしくして、心のよこしまなこと)、狎臣(コウシン=気に入りの家臣)、狎猟(コウリョウ=さまざまに飾ったさま、花や雲などがつぎつぎに重なり接するさま)、狎弄(コウロウ=なれてあなどる、狎侮=コウブ=)。


衆 芳 揺 落 独 暄 妍
占 尽 風 情 向 小 園
疎 影 横 斜 水 清 浅
暗 香 浮 動 月 黄 昏
霜 禽 欲 下 先 偸 眼 
粉 蝶 如 知 合 断 魂
幸 有 微 吟 可 相 狎
不 須 檀 板 共 金 尊


多くの花が散った後、ひとり明るく美しく、みやびな趣を一身に担ってわが庭に咲いている。まばらな枝の影が斜めに映る池の水面が澄んで浅く、ひそやかな香りがただよう大気の中、月は黄金色にかすむ光をそそいでいる。寒い冬の鳥は地に降りようとしても気後れして、まずそっと目をやり、春の盛りに飛ぶ蝶が梅の花のことを知ったなら、いっしょには生きられない悲しみに打ち拉がれるだろう。幸いなことに、ここに、この梅の花によく似合うわたしの静かな吟咏の声がある。にぎやかな拍子木や豪勢な酒樽など必要無しだ。

最後の句の「檀板」(タンパン)は「まゆみの木の板で作った打楽器」、「金尊」(キンソン=金樽)は「美しい酒樽」の意で「酒」のことを指しています。要するに、花見の必需品である「どんちゃん騒ぎ」をいう。梅の花を愛でるのにそんなにぎやかしさは無粋であると断じているのです。

石川忠久氏の「漢詩鑑賞事典」(P585~587)によれば、「まずこの詩で注目に値するのは、梅を詠んだのにもかかわらず、梅という語を一つも使っていないことである。……見どころは、頷聯の三・四句である。さらさらと流れる川の浅瀬に映る影。淡い色をした月の出た夕もやの中に、ほのかに漂う香り。この二句は、後の明の詩人高啓の『寒に疎影に依るは蕭蕭たる竹、春に残香を掩うは漠漠たる苔』<梅花九首その一>などに影響を与えている。首聯、頸聯もなかなか味がある。とくに、うたい出しがうまい。清楚で気高いイメージが漂い、隠士として一生を過ごした作者の雰囲気をよく伝えている」と鑑賞しています。


宇野氏のNHKテキスト(P115)によれば、梅の花は南北朝ごろより詩に取り上げられ、唐末までの詩材としてのイメージは、大体次のようにまとめられるといいます。すなわち、

①雪や氷にとざされた冬の季節に耐え、春、他の花に先駆けて咲くところから、節操の固い花。転じて、高潔な心境のたとえ。

②遠く離れた親しい人に贈る花。

③旅人にとって、故郷への思いをかき立てる花。

宋代に至ると、更に、

④香りのよい花。

⑤品格が高く、超俗的雰囲気を帯びる花。

という二つの性格が加わり、④と⑤の世界は林逋の詩によって定着した、といいます。

漢詩鑑賞事典には林逋の「梅花」という七言律詩も紹介されています。

吟懐長に恨む芳時に負きしを

梅花を見しために輒ち詩に入る

雪後の園林纔かに半樹

水辺のリラク忽ち横枝

人のコウエンを憐れむ多く応に俗なるべし

天の清香を与えしは私有るに似たり

笑うに堪えたりコスウも亦風味ありて

声調を将って角中に吹くを解せんとは


●リラク=籬落。

いけがき、まがき。「籬」の一字で「まがき、ませ」。籬垣(リエン=かきね、まがき、籬藩=リハン=、籬牆=リショウ=)、籬菊(リキク=かきねのそばに咲く菊の花)、籬豆(リトウ=まがきにからんだ豆)、籬辺(リヘン=いけがきのそば、籬畔=リハン=)。

●コウエン=紅艶。

あかくつやっぽいさま。

●コスウ=胡雛。

えびすの子供。「雛」は「こども」。

●輒ち=すなわ・ち。

漢文訓読語法。「~してすぐに…」「~して、たやすく…」と訳す。音読みは「チョウ」。輒然(チョウゼン=ぺたぺたとくっつくさま、密着して一体になったさま、すぐ・突然)。

●纔かに=わず・かに。

やっとのことで、はじめて。音読みは「サイ」。方纔(ホウサイ=はじめて、やっと)。

吟 懐 長 恨 負 芳 時
為 見 梅 花 輒 入 詩
雪 後 園 林 纔 半 樹
水 辺 籬 落 忽 横 枝
人 憐 紅 艶 多 応 俗
天 与 清 香 似 有 私
堪 笑 胡 雛 亦 風 味
解 将 声 調 角 中 吹


梅のさかんな季節だというのにいい詩が作れず恨めしい。梅を見るたびに詩作の意欲だけは湧いてくる。雪がやんだ庭の林には、雪をかぶって半分だけ顔をのぞかせる梅の木が興趣をそそる。いや、水辺の生け垣から唐突に横に伸びる枝ぶりも素晴らしい。とかく紅い艶やかな花が好まれるのは、なんとまあ俗っぽいことで仕方ないが、天が梅にだけ清らかな香りを賦与したのは奇跡と言っていい。北の辺境に住む蛮族の子供ですら風流の理解しているのも笑ってしまう。梅の花にちなんだ曲をアレンジしながら角笛で吹いているのだから。

この詩の「雪後園林纔半樹、水辺籬落忽横枝」の頷聯も名句として名高い。雪景色の梅を形容する句としては史上最も優れていると言えるのではないでしょうか。

「新法」と呼ばれる急進的な政治改革を主導した王安石(1021~1086)にも梅を詠じた詩があります(NHKテキスト、P114)。

牆角 数枝の梅

寒を凌いで独り自ら開く

遥かに知る 是れ雪ならざるを

暗香有りて来るが為なり


●牆角=ショウカク。

囲いの隅っこ、土塀のすみ。「牆」は「かき」「へい」と訓む。牆衣(ショウイ=土塀の上の青い苔)、牆垣(ショウエン=かきね、土塀、牆籬=ショウリ=)、牆頭(ショウトウ=かきねのあたり)、牆壁(ショウヘキ=かこいの土塀)、牆面(ショウメン=無学の人のたとえ)。


かきねのすみに数本の梅の枝。寒さにたえながら孤高の白い花を咲かせている。遠目にも雪ではないことは明らか。なんとなれば甘い香りがわたしの鼻をひそやかにくすぐるから。

牆 角 数 枝 梅
凌 寒 独 自 開
遥 知 不 是 雪
為 有 暗 香 来


完全に林逋の詩風を真似しているばかりか、ちゃっかりと「暗香」というキーワードをもいただいていますね。安石も、こと梅を詩に詠むならば林逋には到底かなわなかったと諦めているのでしょう。ここまで堂々とぱくると潔いと言えるでしょう。

林逋は、浙江省杭州市出身で、生涯、官僚役めはせず市井の人として生活を送りました。西湖の畔、孤山に居を構え、二十年間も引き籠もり町へ降りなかったといいます。現在も西湖には「放鶴亭」と呼ぶ、彼の廬の跡が残っているそうです。諡して「和靖先生」といい、「林和靖先生詩集」四巻があり、三百篇余りの詩が現存しています。それにしても、林逋の詩は、人間に対する以上に梅に注がれている愛情を感じるものばかりですが、一つ間違えば“フェティシズム”と言える盲目的な感じもなくはないでしょうか。

「人」でない「物」しか愛せない性的な倒錯。。。梅は確かに美しいですが、物を言うわけではないし、行動するわけでもない。そこに存在するのみ。呼吸はしているが動くことのない梅を「妻」にするという発想自体が、傀儡のようでもありいささか“デインジャラス”かもしれません。幼いころに、あるいは思春期に女性を愛せなくなったトラウマがあったのでしょうか。一方、鶴を飼うというのは「子供」と称するかどうかともかく、当時、隠者の風流として流行したようです。鶴と言えば、湖北省武昌市にあり、長江を臨む楼、「黄鶴楼」の伝説が有名です。次回はこれを詠んだ超有名な詩を取り上げようと思います。

生涯を「詩癖」で貫いた「詩香」芬芬の詩人=北宋の梅堯臣4・完

梅堯臣シリーズは最終回です。これまで蚯蚓、猫、牛といった身近な小動物を題材に詠んだ詩を見てきました。彼の詩の主人公はこれらにとどまりません。河豚、蝦蟆児、虱など、そのヴァラエティの多彩さは唐代の詩にはなかったものです。本日は多くの詩を紹介します。いずれもNHKラジオテキスト「漢詩をよむ 漢詩の来た道(宋代前期)」(宇野直人著)から。

まずは河豚の美味が話題に上った宴会の席上で詠んだ詩です。

「范饒州坐中語食河豚魚(范饒州の坐中にて 客 河豚魚を食するを語る)」

……
河豚 是の時に当り

貴きこと 魚蝦を数とせず

其の状 已に怪しむ可く

其の毒 亦 加ふる莫し

腹を忩らすこと封豕の若く

目を怒らすこと呉蛙の如し

庖煎苟も所を失すれば

喉に入りて鏌鎁と為る
……(一部抜萃です)

●河豚=カトン。

河豚とは読みたくない。ふぐに似た淡水魚。やはり毒を持つ。ブタのように丸々と太って美味。

●封豕=ホウシ。

大きなイノシシのこと。これは封豕長蛇(ホウシチョウダ=欲深い残酷な人物)から来ている言葉です。この「封」は稍難しく「盛り土のようにふっくらとして大きい」という意味。「豕」は「いのこ」「ぶた」とも訓む。豕交獣畜(シコウジュウキク=礼を持って人を遇せず、けものや家畜同様に取り扱うこと)、豕心(シシン=恥じ知らずで欲張りな心のこと)、豕喙(シカイ=欲深い人相)、豕突(シトツ=猪突、向こう見ず)、豕牢(シロウ=豚小屋、トイレ)。「忩」は「怱」の異体字ですがここは「いからす」と訓み、「怒ったように(腹を)ぷく~っと膨らませる」と解釈したい。

●呉蛙=ゴア。

呉の地方のカエル。呉娃(ゴアイ)といえば「呉の地方の美しい娘のこと」ですから、見た目の美しい呉地方特別のカエルでもいたのでしょうかね。



最後のくだりがこの詩のPUNCH-LINEですね。「庖煎」とは料理方法を指し、「万が一にもフグの毒を取り除くことをミスすれば、莫邪のような鋭利な剣を呑んだように腹が切り裂かれ、死んでしまうよ」とおどけているのです。「鏌鎁」(バクヤ)とは、春秋時代の呉国の「干将莫邪」の故事で有名な名剣のことです。呉蛙と鏌鎁は掛け言葉なのです。

続いて、降り止まない霖にうんざりの梅堯臣です。

「梅雨」

三日 雨止まず

蚯蚓 我が堂に上る

湿菌 枯籬に生じ

潤気 素裳を醭す

東池の蝦蟆児

限り無く相チョウリョウ

野草 花圃を侵し

忽ち欄干与(より)も長し

……(後略)

●チョウリョウ=跳梁。

かってに動きまわる、はねまわる。悪人が思うままにふるまうこと。跳梁跋扈(チョウリョウバッコ=悪者がはびこり、勝手気ままにふるまうこと、飛揚跋扈=ヒヨウバッコ=、横行闊歩=オウコウカッポ)。「梁」は「やな」「はり」「うつばり」。

●蝦蟆児=カバジ。

がまがえる。ヒキガエル。

何とも欝陶しい雰囲気がぷんぷん。ここでも蚯蚓が再び登場しています。湿菌(シッキン)は「かび」、「醭」(ホク)は「白かび」。三日も雨が降り続けば、こうしたじめじめした空気が体に纏わりつきます。

続いてはちょっと長い題の詩。

「師厚云ふ 蝨は古より未だ詩有らず 予を邀へて之を賦せしむ」(妻の甥の謝景初から「●●●を詠んだ詩はまだ無いから」と勧められて作った)

貧しきものの衣は弊れて 垢じみ易く

垢じみ易ければ の少きこと難し

裳と帯の中に 群がり処り

裘の領の端に 旅り升る

跡を蔵して 詎んぞ策む可けんや

血を食らうて以て自ら安んず

人世 猶ほ俯仰

爾が生 何ぞ観るに足らんや

●蝨=しらみ。虱とも書く。音読みは「シツ」。蝨官(シッカン=国をむしばむ要因)、捫蝨(モンシツ=人前で、しらみを手探りしてつぶす。無頓着で、あたりを構わないさま)。


貧乏人の着物はぼろぼろで垢に塗れている。だからしらみがうようよいる。したばかまやおびに群がっている。上着の襟から這い上がってくる。すがたをくらましてつかまえようもない。人の地を吸ってのうのうとしている。だが待てよ。人間だって右往左往、齷齪しているではないか。同じことだ。しらみの生態にことさら目を向けるまでもないか。

しらみの生きざまを人間に重ね合わせています。辛辣な人間観は長い地方官役めの不遇感によるものではないか、と宇野氏は指摘しています。しかしそれは、一面、農民、漁民や手工業者の生活苦への同情を深めさせ、「社会派詩人」としての姿勢を養うことにもなった、とも解説されています。

「詩癖」(七言律詩)

人間 詩癖は銭癖に勝る

カンピを捜索して 過ぐること幾春ぞ

嚢橐 貧の旧に似たるを嫌ふ無く

フウソウ 句の新なる多きを喜む有り

但 苦意を将て層宙を摩せんとし

終に窮まりて ボシンを渉るを計ること莫し

試みに看よ 一生 ドウシュウの者

他のトウダイを羨むこと 亦 何ぞ頻りなる

●カンピ=肝脾。

肝臓と脾臓。すなわち、心の中で思うこと。

●フウソウ=風騒。

「詩経」の国風と、「楚辞」の離騒。転じて、詩文のこと。

●ボシン=暮津

夕暮れ時の渡し場。すなわち、老年の日々。「津」は「渡し場」で陶淵明の桃花源記に「問津」(モンシン、シンをとう=渡し場の在り処を尋ねる、転じて、学問を修めるための方法を尋ねる、人に物を尋ねる)があります。

●ドウシュウ=銅臭。

金銭によって官位を得た者をあざけっていうことば、金持ちや、無暗に金を欲しがる者をいやしめていうことば。

●トウダイ=登第。

科挙に合格すること。登科(トウカ)ともいう。また、広く試験に合格することをいう。

人 間 詩 癖 勝 銭 癖

捜 索 肝 脾 過 幾 春

嚢 橐 無 嫌 貧 似 旧

風 騒 有 喜 句 多 新

但 将 苦 意 摩 層 宙

莫 計 終 窮 渉 暮 津

試 看 一 生 銅 臭 者

羨 他 登 第 亦 何 頻


この世の中、詩に執心することは金銭に執心するよりずっといい。心の中で詩のことをあれこれ考えどれほどの歳月を過ごしたことか。財布の中が、相も変わらず寂しいのも気に留めず、作る詩文が新鮮味に富む句作りなのをうれしがる。ひたすら精進を重ねて高い大空に達しようと念じ、ついに行き詰まって暮方の渡しを歩むことなど考えもしない。まあ見たまえ、生涯ずっと金銭の臭いにまみれた輩が、他人の及第をうらやむことの何とあさましいことか。

NHKテキスト(P82)によると、「嘉祐4年(1059)、梅尭臣58歳。世を去る前年の詩である。范鎮・王疇という二人の友人の作った三十八首の連作に梅尭臣が一々唱和した、そのうちの一首にあたる。このころ彼は『新唐書』の編纂に参加していたが、ここでは貧窮の中で詩に生き甲斐を求め続けた自分の生涯を総括するような詠みぶりになっている」。

苦吟を重ねて「平淡」の境地を見出した梅堯臣。冒頭の「人間詩癖勝銭癖」には、溢れる詩才を裕福な生活につなげられなかった自分自身の腑甲斐無さと同時に、詩に対する思い入れを表した自信満々の姿が垣間見えます。若いころから出世よりも詩作に腐心してきた毎日。いい詩が出来たときはそれなりに満足感があった。財布はからっぽだが…。そんなわたしも気が付けば「暮津」を歩んでいるではないか。人の出世を羨んでも致し方ない。詩と共に生きてきた「証」を見せつけてやる。えいっ……。金の臭いはしないが、詩の香りなら芬芬でしょ?詩、詩、詩、詩。。。。。。。。。現存する詩は「2800首」(吉川幸次郎著「宋詩概説」=岩波文庫=)にも及ぶそうです。

蔭補の御蔭で出世できず 才能あっても卯建上がらず=北宋の梅堯臣3

北宋の梅堯臣シリーズの3回目は、こき使われる農家の牛の悲惨な境遇を詠んだ作品を取り上げます。あたかも梅堯臣が自らの境遇を寓意したかのようにも受け取れます。身分が低くて虐げられた者、そして、能力がありながらそれを発揮する場所が与えられない者の怨嗟の叫びかもしれません。



「耕牛」(五言律詩)

ア)を破りて 耕して休めず

何ぞ1)ルイトクを顧みるに暇あらん

夜に帰って 明月にイ)

朝に出でて 深谷を穿つ

力は2)デンチュウに窮ると雖も

腸は未だ3)スウシュクに飽かず

稼収 風雪の時

又 ウ)寒坡に向て牧せらる

   (NHKラジオテキスト 宇野直人「漢詩をよむ 漢詩の来た道(宋代前期)」から)

   嘉祐2年(1057)、梅尭臣56歳のころの作品



1)ルイトク=羸犢。

やせて弱々しい子牛。「犢」は「こうし」。舐犢之愛(シトクのアイ=親が子をむやみに愛すること、溺愛、親馬鹿)、「羸」は「つかれる」とも訓む。羸馬(ルイバ=痩せ衰えた馬、羸駑=ルイド=)、羸師(ルイシ=つかれてよわった軍隊)、羸弱(ルイジャク=つかれ弱って力が衰える)、羸脊(ルイセキ=つかれやせる、羸瘦=ルイソウ=)、羸餒(ルイタイ=ぐったりとつかれて飢える)、羸兵(ルイヘイ=つかれてぐったりした兵士、羸卒=ルイソツ=)、羸弊(ルイヘイ=つかれて弱り苦しむ、羸敝)、羸老(ルイロウ=つかれ老いる、体力の衰えた老人)。

2)デンチュウ=田疇。

田畑のあぜ。転じて、田畑そのもの、田地。「疇」は「うね」。疇隴(チュウロウ=畑のうね、田畑)。

3)スウシュク=芻菽。

まぐさと豆。「芻」は「まぐさ」。草冠のついた「蒭」はこれの異体字です。芻豢(スウカン、スウケン=草食の家畜と穀食の家畜)、芻狗(スウク、スウコウ=わらでつくった犬の模型、祭りで用いて終れば捨てる、用無し)、芻言(スウゲン=草刈りのいう言葉、民間人の意見、自分の意見を遜る)、芻蕘(スウジョウ=身分の卑しい者、転じて、庶民、自分の作品を謙遜する言い方)、芻米(スウベイ=牛馬を飼うまぐさと、人を養うコメ)、芻牧(スウボク=牛馬などを飼うこと)、芻秣(スウマツ=牛馬の飼料としてのまぐさ、かいば)、芻霊(スウレイ=草を束ねてつくった人形、葬式の時、死者と共に葬り、殉死者のかわりとした)。「菽」は「まめ」。菽水歓(シュクスイのカン=マメを食い、水を飲む貧しい生活をしていても親を歓ばせる、貧窶な生活をしていても親に孝行を尽くすこと)、菽粟(シュクゾク=人間の常食としてのマメ類と穀物類)、菽粒(シュクリュウ=マメ粒のこと)、不弁菽麦(シュクバクをベンぜず=おばか)。

ア)領=うなじ。

 くび(のうしろ)。領悉(リョウシツ=承知する、うけたまわる、手紙の文面で用いる)。

イ)喘ぎ=あえ・ぎ。

「喘ぐ」は「あえぐ」。音読みは「ゼン」。喘噎(ゼンエツ=せきこんでむせぶ)、喘汗(ゼンカン=あえいで汗を流す)、喘喘(センセン=はあはあとあえぐさま)、喘息(ゼンソク=咳の出る病気、喘気=ゼンキ=)、喘鳴(ゼンメイ=ぜいぜい音がする喉鳴り)、呉牛喘月(ゴギュウゼンゲツ=誤解して必要以上におびえるたとえ、思いすごしから要らぬ苦労をするたとえ、懲羹吹膾=チョウコウスイカイ=、蜀犬吠日=ショクケンハイジツ=)。

ウ)寒坡=カンパ。

寒々しい丘。「坡」は「つつみ、さか」。土を盛って山型に築いた堤。坡陀(ハダ=起伏があって平らでないさま)、坡塘(ハトウ=土手、堤防)、坡頭(ハトウ=土手のほとり)、坡老(ハロウ=蘇軾の別名)、坡壟(ハロウ=土手と丘、小高くなったところ)。

破 領 耕 不 休
何 暇 顧 羸 犢
夜 帰 喘 明 月
朝 出 穿 深 谷
力 雖 窮 田 疇
腸 未 飽 芻 菽
稼 収 風 雪 時
又 向 寒 坡 牧


(解釈)首の皮をすり傷だらけにして休みなく耕す。かよわい子牛に目を向けるゆとりなどない。夜半に帰る時、月を見て息を切らし、朝早くに小屋を出て 深い谷へと向かう。体力が畑地に尽き果てようというのに、その腹はまぐさや豆を十分に食べていない。取り入れの後、風交じりの雪の季節が到来し、今度は寒々しい丘の上で放牧されているのだ。


梅堯臣のいわば同僚官僚だった欧陽脩は進士出身(科挙)で政府高官とした世に名を馳せたのと対比すると、梅尭臣は地方暮らしが長く、不遇を喞ちました。ところが、欧陽脩は梅堯臣の詩に一目も二目も置いていました。詩の才能に於いてはもしかしたら梅堯臣の方が上だったかもしれないほど、彼の詩はすぐれているとの評判が立っていました。それは欧陽脩も認めていたのです。それなのに梅堯臣が卯建が上がらなかった人生を送ったとされるのはなぜでしょう。梅堯臣はいわばコネで官僚になったため、いわゆる進士というエリートコースには乗っていませんでした。高級官僚だった叔父のおかげで官僚になれたのです。蔭補、蔭叙、蔭子、蔭生、蔭位、蔭官などと称します。それだけで不遇とは言えないでしょうが、やはり生活が苦しかったことは挙げられるでしょう。もしかしたら世渡り下手だったのかもしれません。そして、有り余る才能がある故に、現実とのギャップは彼を苦しめたに違いありません。これだけの詩才がある俺がどうしてこの苦境から抜け出すことができないのだ?――。

景祐3年(1036)、35歳という若い頃、建徳県(浙江省建徳県)の知事時代に詠んだとされる「陶者」という詩(五言絶句)があります。

門前の土を陶き尽すも
屋上 片瓦無し
十指 泥に霑はざるも
鱗鱗 タイカに居る

陶尽門前土
屋上無片瓦
十指不霑泥
鱗鱗居■■


(解釈)門前の陶土を全部焼いて瓦に仕上げるのだが、自分の家には瓦が一枚もない。それなのに、両手の指が泥に触れることすらないのに、屋根瓦が魚のうろこのようにぎっしり並ぶ豪邸に住む人がいる。

●タイカ=大廈。

 豪邸のこと。「廈」は「いえ」で「屋根を葺いた家」。大廈高楼(タイカコウロウ)といえば「大きな建物のこと」、大廈棟梁(タイカのトウリョウ)は「国の重要な任務をになう人材のこと」、広廈万間(コウカマンゲン=なん間もあるような広い家)、廈屋(カオク=大きな屋根でおおったいえ)。


NHKテキスト(P81)によれば、「梅堯臣はここで、社会の繁栄を支える人々がそれに見合った地位と報酬を得ていないことを述べ、栄華の底にひそむ矛盾を訴えたのだった」とあります。30代半ばのこれから人生が本格化するときです。知事という地方官僚だからこそ見えた世界でしょうか。「紺屋の白袴」や「駕籠舁駕籠に乗らず」などとも言いますが、職人は技術はあっても人のために活用されるもので自らの生活の繁栄には貢献しないもの。この詩でも陶者は人のためにせっせと瓦を焼いていくが、自分の家にはその瓦が一枚もないという皮肉な生活を送っている。まるで自分のようだ。こんなに才能があっても自分の生活が楽になることにはつながらない。嗚呼、この才能のうまい使い道はないのか?だれか分かってくれる人はいないのか?才能がないのにのうのうと出世して、安逸を貪っている奴らが五万といるというのに……。

舟中で暮した飼い猫を哀悼する心優しき詩人=北宋の梅堯臣2

■梅堯臣(1002~1060)

字は聖兪(セイユ)。出身地の宣州宛陵(現在の安徽省)にちなんで、その詩集は「宛陵先生集」(60巻)とよばれる。ちょうど梅堯臣の生きた11世紀前半は、科挙に合格して官僚になるルートが定着した時代でもあった。ところが彼は、叔父が高官であったため縁故採用(蔭補=インポ=という)によって官僚コースを踏み出した。そのため一生、卯建が上がらず、したがって官僚としての特記すべき活躍は少ないが、56歳の時、知貢挙(チコウキョ=科挙の試験委員長)であった欧陽脩の推薦を受けて科挙試験官をつとめた。このとき合格したのが蘇軾(蘇東坡)や曾鞏である。中国では試験官と受験生は師弟となるので、つまり梅堯臣は蘇軾の師になったわけである。

官界のキャリアが今一つだった分、自然と情熱のすべては詩作に注がれることになった。「貧しくしてこその詩上手」とは、同時期の蘇舜欽と並べて彼の詩を称賛した欧陽脩のことばである。日常生活の種々相をテーマにうたい、詩の分野を唐詩にくらべて一段と拡大し、また、平淡な表現をしたことなど、彼によって宋詩の特色が築かれたといってよい。

            (以上、石川忠久氏「漢詩鑑賞事典」=講談社学術文庫=、P588から引用、一部修正)

梅堯臣の詩風のキーワードは「平淡」。当時流行した、晩唐の李商隠に発する「西崑体」といわれる技巧を凝らした作風に対抗するものです。宇野直人氏のNHKラジオテキスト「漢詩をよむ 漢詩の来た道(宋代前期)」(P77)によりますと、欧陽脩は彼の詩のことを「橄欖の実のように、初めは固くて味がないが、嚙むうちにだんだん味が出て来る」と評した(五言古詩「水谷夜行、子美[蘇舜欽の字]・聖兪[梅堯臣の字]に寄す」)。橄欖とは「オリーブの実」。口の中に頰張っても美味しくない。固いだけ。しかし、すぐに飲み込まずに囓んで囓んでじわ~っと味が染み出てくる。いや、ちょっとやそっとではないかもしれません。「平淡」とは、作為的でない、混じり気のない純朴さをいう言葉ですが、これがなかなかに難しい。恐らく「平淡」というのは帰結であって、そこに至るまでのプロセスにおける呻吟、苦悩は相当な物があるに違いないです。他人が平然と「平淡」などという言葉を使っては当の梅堯臣には申し訳ないかもしれないですね。詩人の気持ちを忖度など俄かの素人ごときが出来るはずがないですな。

それより詩に行きましょう。

「祭猫」(猫を祭る)[五言古詩]


五白の猫を有して自り

鼠 我が書を侵さず

今朝 五白死し

祭りて飯と魚とを与う

之を中河に送り

爾を呪するは 爾を疎するに非ず

昔 爾 一鼠をア)

銜え鳴きて庭除をイ)れり

衆鼠をして驚かしめんと欲し

意は将に我が廬を清めんとす

一たび舟に登り来りてより

舟中 屋を同じうして居る

ウ)糗糧 甚だ薄しと雖も

漏窃の余を食うを免る

此れ 実に爾の勤むる有ればなり

勤むること有るは1)ケイチョに勝る

世人は2)クガを重んじ

3)バロに如かずと謂う

エ)已矣 復 論ずること莫けん

爾の為に聊か4)キキョ

1)ケイチョ=鶏猪。

にわとりといのしし。

2)クガ=駆駕。

馬を走らせて駕籠に人を乗せること。なかなか辞書には見えない言葉です。駆騁(クテイ=馬をあちこちに走らせる)、駆馳(クチ=馬をさっと走らせる、はせまわって人のために尽くす)、駆塵(クジン=馬がはやがけして舞い上がった土ぼこり)、駆儺(クダ=年末や節分などに悪鬼をおいはらう儀式、追儺=ツイナ=)、駆掠(クリャク=追い払って財産などを奪い取る)。

3)バロ=馬驢。

ウマとロバ。「驢」は「ろば」「うさぎうま」。驢鳴犬吠(ロメイケンバイ=きくにたえないもの、文章の劣っていることのたとえ、驢鳴狗吠=ロメイクバイ=とも)。

4)キキョ=欷歔。

すすりなくこと。唏嘘、嘘唏、歔欷とも書く。

ア)齧み=か・み。

「齧む」は「かむ」。かみ切る、かんで傷をつける。音読みは「ゲツ」。齧膝(ゲッシツ=昔の良馬の名、転じて良馬)、齧歯目(ゲッシモク=哺乳類の分類のひとつ、犬歯がなく、門歯は大きく鋭く、物をかじるのに適している、ネズミやリスなどのたぐい)、齧噬(ゲッゼイ=物をかむ、噬齧=ゼイゲツ=)。

イ)遶れり=めぐ・れり。

「遶る」は「めぐる」。まわりをまわっていく。音読みは「ジョウ、ニョウ」。囲遶(イジョウ、イニョウ=ぐるりと取り巻く)。「めぐる」はほかに、「回る、繚る、巡る、迴る、廻る、環る、嬰る、邏る、循る、紆る、蟠る、匝る、匯る、周る、圜る、徇る、徼る、斡る、旋る、槃る、樛る、浹る、般る、盤る、躔る、輾る、週る、運る」など多彩です。

ウ)糗糧=キュウリョウ。

保存用・携帯用のための食糧とするほしいい。「糗」は配当外で「ほしいい」。乾燥した飯。

エ)已矣=やんぬるかな。

ああ、もうどうしようもない。絶望を表す。これまでも何度も登場。そろそろ、漢検本番でも出そうです。「やみなん」とも訓む。

白ぶちの猫を飼ってからというもの、鼠はわたしの本をかじらなくなった。今朝、その猫が死んだ。飯と魚を供えて葬ってやることにした。お前を河の中程まで見送って、祟りが起きないようにとお祈りしたのだが、それは決してお前のことを大切に思っていないからではないことは分かってほしい。かつてお前は鼠を一匹だけ捕まえてくわえながら庭じゅう、にゃ~にゃ~と鳴きながら走り回ったことがあったな。家じゅうにいる鼠どもをおどしてわたしの家から追い払おうとしてくれたのだよね。わたしが船旅を始めてからというもの、舟の中、ひとつ屋根の下でいっしょに暮らしてきた。旅先での食事はとても粗末ではあったが、鼠が小便を掛けたり、鼠がぬすんでいった残り物を食べるということが一度もなかったのもすべてお前の陰だ。お前は飼い主のために努力したのだ。その点では卵や肉となる鶏や猪にもまさっているよ。なぜなら奴らは生きているだけで努力をしているのではないから。世の人々は車を走らせたり、人を乗せたりすることを気にかけるあまり、猫の働きのごときは馬やロバに到底かなわないと考えている。ああ、どうしようもないことだね。言っても詮方ないからこれでやめておく。最後にもう一度だけお前の為にむせび泣いてお見送りさせてもらうよ。

自 有 五 白 猫
鼠 不 侵 我 書
今 朝 五 白 死
祭 与 飯 与 魚
送 之 于 中 河
呪 爾 非 爾 疎
昔 爾 齧 一 鼠
銜 鳴 遶 庭 除
欲 使 衆 鼠 驚
意 将 清 我 廬
一 従 登 舟 来
舟 中 同 屋 居
糗 糧 雖 甚 薄
免 食 漏 窃 余
此 実 爾 有 勤
有 勤 勝 鶏 猪
世 人 重 駆 駕
謂 不 如 馬 驢
已 矣 莫 復 論
為 爾 聊 欷 歔


飼い猫との触れ合いや思い出を「哀悼文」にして詠んでいます。この中で「庭除」(テイジョ)とあるのは、庭の階段のこと。庭階(テイカイ)とも言います。「除」とは「堂屋から庭へ降りるときの階段のこと」。中国の邸宅は、寺の本堂のように地面から高くなっていて、階で登り降りするようになっている。そこで「庭」と「除」の二字でもって庭全体を指し示しています。

漢詩鑑賞事典によると、「宋詩の特徴として、唐詩には希薄であった題材の広さや日常生活に密着した作詩態度も指摘されている。この詩も宋詩の特色をよく示すものといえる。死んだ飼い猫に対する作者の愛情と同時に、馬や牛のごとく目立った労役をしない小さな愛玩動物にもそれなりの精勤と、ひいては存在価値のある事を訴えている。ことに『世人重駆駕、謂不如馬驢』の二句には、生涯卯建の上がらなかった作者の自壊がこめられていよう」との解説が見えます。梅堯臣が卯建が上がらなかった背景については次回触れてみたいと思います。

「蚯蚓」も詩題に…その卑近さが異彩を放つ=北宋の梅堯臣1

弊blogはこのところ中国の名文・美文を数多く味わってきましたが、ここらで久しぶりに漢詩に戻ることとしましょう。とくに誰というでもなく、時代も特別なテーマを設けずランダムに、気まぐれ散人の本領発揮と行きましょうかね。やはり漢詩はいいですよ。疲れた心に沁みますね。凝縮された世界に浸りましょう。

唐突ですが、中国北宋の時代に活躍した梅堯臣(1002~1060)という詩人がいます。偶々、宇野直人氏のNHKラジオテキスト「漢詩をよむ 漢詩の来た道(宋代前期)」(2010年4月~9月)を読んでいたところ、梅堯臣の「蚯蚓」という面白い詠物詩に目が留まりました。官僚詩人である欧陽脩とともに、当時を代表する詩人です。

まずは、そのまま引用しましょう。

 「蚯 蚓」 (五言古詩)

 ア)蚯蚓 泥穴に在り

 出縮 常に盈つるに似たり

 龍 1)ワダカマれば亦 以てワダカマり

 龍 鳴けば亦 以て鳴く

 自ら謂ふ 龍と比ぶと

 恨むらくは 頭角の生ぜざるを

 イ)螻蟈 相助くるに似て

 草根 声を停むる無し

 ウ)聒乱 我 エ)ねず

 毎夕 但 明を欲す

 天地 且つ容畜す

 憎悪するは唯 人情


1)ワダカマれば=蟠れば。

「蟠る」は「とぐろを巻く、また、あぐらをかく」の意。音読みは「ハン、バン」。蟠拠(バンキョ=場所を占めて勢力を持つ、盤拠)、蟠踞(バンキョ=とぐろを巻いてうずくまる、はばをきかせる、竜蟠虎踞=リョウバンコキョ=)、蟠屈(ハンクツ=龍が長々ととぐろを巻く、気がふさいではればれしないさま)、蟠結(ハンケツ=複雑に入り組み、むすぼれる)、蟠桃(ハントウ=仙人が住む山中にあるという桃の木、三千年に一度しか実らない)、蟠蜿(ハンワン=ヘビや竜がうねうねととぐろを巻くさま)。

ア)蚯蚓=キュウイン。

ミミズ。取るに足らないもの。「蚯」も「蚓」も一字で「ミミズ」。蚓操(インソウ)という面白い言葉があり、「ミミズの生き方、つまり、ミミズが土を食らい水を飲むだけで、それ以上を求めないように、自分の分際、小さな生活の枠を守り、そこに甘んじる生き方、「孟子」に出典あり」。

イ)螻蟈=ロウカク。

ケラとアオガエル(ヒキガエル)。取るに足らないものの譬え。「螻」は「ケラ」、「蟈」は「アオガエル、ヒキガエル」(配当外)。螻蛄(ロウコ)も「ケラ」。注釈によると「礼記」月令に「孟夏の月、螻蟈鳴き、蚯蚓出づ」とあり、「螻蚓」(ロウイン)は「けらとみみずで、つまらぬもののたとえとなる」と出ています。

ウ)聒乱=カツラン。

かまびすしいこと、やかましいこと。「聒聒児」は「クツワムシ」。

エ)寐ねず=い・ねず。

「寐」は「ねる」。音読みは「ビ」。寐語(ビゴ=ねごと、たわごと)。反対後は「寤」(ゴ)で、寤寐思服(ゴビシフク=ねてもさめてもわすれられない)、夙興夜寐(シュクコウヤビ=朝早くから起きて夜遅くまで日夜仕事に精励すること、夙興夜寝=シュクコウヤシン=)、夙夜夢寐(シュクヤムビ=ねてもさめても終日絶えず)。

蚯 蚓 在 泥 穴
出 縮 常 似 盈
龍 蟠 亦 以 蟠
龍 鳴 亦 以 鳴
自 謂 与 龍 比
恨 不 頭 角 生
螻 蟈 似 相 助
草 根 無 停 声
聒 乱 我 不 寐
毎 夕 但 欲 明
天 地 且 容 畜
憎 悪 唯 人 情


(解釈)ミミズは泥の中の穴が棲家だ。出たかと思うと引っこむだけ。それでいて満ち足りた生活なのだろう。龍がとぐろを巻けば、それに合わせて自分も丸まるし、龍が鳴けば、それに合わせて鳴くのだ。龍と相並ぶ存在だと勝手に思っているが、惜しいことに龍と違うのは角が生えていないこと。その代わりオケラが声を合わせてでもいるのだろうか、草の根元でひっきりなしに鳴く。騒がしいことこの上なく私は眠りにつけない。毎晩、その中で夜明けが来てしまう。天も地もそんな彼らさえいとも簡単に受け入れるのだ。嫌がったり毛嫌いしたりしても無駄なこと。人間の我がままに過ぎないのだから。

何ともシュールレアリズムな雰囲気たっぷりの詩でしょうか。ミミズという小動物を主題に設定する斬新さ。取りたてて「捻り」もないのですが、龍と対比させたり、オケラとコントラストさせたり、いかにも諧謔性に富む作品です。最後には人間の世界を登場させ、己の不遇感を際立たせています。所詮、人間はミミズと同じ小動物ではないか。何を齷齪しているのか。自分をミミズだと思えれば、こんなに楽なことはないさ。

宇野氏の注釈(同テキストのP77)によると、「この詩の中では、自分の小さな見識に満足し、力のある者におもねり、つまらぬ者どうし結束して騒ぎ立てる小人物たちになぞらえていようか。末尾の二句は“そんな連中に心を乱されない、清濁併せ呑む度量を身につけよう”という願望のように読める。しかし全体としては、ユーモアを含む描写によって辛辣さがうすめられ、どこかとぼけた、ほほえましい雰囲気の詩になっている」とあり、慶暦5年(1045)、作者44歳の作とされるといいます。

北宋代の詩人と言えば欧陽脩や蘇東坡、王安石らが「超弩級」ですよね。梅堯臣は中国詩人の中でもそれほどメジャーな存在とは言えず、少なくとも日本人の人口に膾炙する詩は殆んどないでしょうね。やはり彼も官僚生活は不遇を喞っています。しかしながら、最も華やかな唐代から下り、写実的な宋詩の詩風に道を開いた。なんだか、これなら我々でも詠じられるのではないかと錯覚させてしまう卑近さが異彩を放っています。しかしながら、その根底にある思いの熱さは、これまでに見てきた詩人たちにも劣らないものがあります。小難しい漢詩を庶民の目線に置くことも可能にした梅堯臣。ほかにも面白い詩がたくさんあります。次回も味わうこととしましょう。

傷心の王維も陶淵明に傾倒へ=漢詩学習

本日は王維の「菩提寺の禁に、裴迪来りて相い看て説く。逆賊等凝碧池上に音楽を作す。供奉人等声を挙ぐるに、便ち一時に涙下ると。私に口号を成し、誦して裴迪に示す」という長~いタイトルの詩を玩わいます。長いのは題だけで、詩本体は七言絶句で、比較的シンプルな詩です。
岩波文庫「王維詩集」(P255~257)から。

万戸傷心生野煙
百官何日更朝天
□□葉落空宮裏
凝碧池頭奏管絃

万戸 傷心 野煙を生ず
百官 何の日か 更に天に朝せん
シュウカイ 葉は落つ 空宮の裏
凝碧の池頭 管絃を奏す


家々が皆、野煙を上げているのは心の痛みを表しているかのようだ。再び帝の前に百官が勢ぞろいするのはいつのことになるのか。秋となりえんじゅの枯葉がひっそりとした宮殿の中に舞い落ちている。凝碧の御池のほとりでは管弦楽の調べが奏でられているばかりだ。

「シュウカイ」は熟語としては難しいでしょう。解釈をヒントにして「秋になってえんじゅに枯葉が…」ですから正解は「秋槐」。「えんじゅ」は「カイ」が音読みです。「鬼」を「キ」ではなく「カイ」とノータイムで読めるようにしなければいけません。「かたまり」の「塊」は常用ですが、①「隗より始めよ」の「隗」②「崔嵬」(たかくけわしい)の「嵬」③「傀儡」(くぐつ)の「傀」④「玫瑰」(はまなす)の「瑰」などがあるので「グループ化」しておきましょう。

で、これだけ読むと何のことやらいまひとつ分からないでしょうね。題を見ると、「逆賊」とあるのは「安禄山」のことなんです。これまでも何度も取り上げていますが、755年12月に唐王朝に反旗を翻した安禄山の乱が舞台。翌年6月には都長安も陥落しました。漢詩国民投票でぶっちぎりの一位を獲得した杜甫の「春望」はこの都の荒れ果てたさまを詠んだものでした。この乱は当時の詩人たちにはかほど大きな衝撃を与えました。そして、王維も例外ではなく捕虜として監禁されたのです。そうしたさなかに詠んだのが上記の詩です。

「凝碧池」というのは、副都・洛陽にある御苑内の池のこと。安禄山は洛陽に本拠を構えていました。「供奉人」というのは文学芸術にすぐれ宮中に召しだされて御用を承る者で、あの李白もこれに任ぜられて、楊貴妃を褒めまくって墓穴を掘ったのでしたよね。ここでは宮廷所属の音楽団の団員を指します。「口号」は「口ずさみながら作った詩」。

この詩のエピソードについては、音楽好きだったあの玄宗皇帝が自ら宮中で学団を養成し、「梨園の弟子」と称したのは例の長恨歌でご存知ですよね。同書に拠りましょう。「彼らは長安が陥落すると安禄山の捕虜となってしまった。禄山は凝碧池で大宴会を開き、彼らに演奏をさせたが、みな涙を流しながら演奏した。禄山の一党はみな刀を抜いて彼らをおどかした。楽団の一人雷海青はたまりかねて楽器を投げだし、玄宗のいる西方をめがけて大いに泣きさけんだ。禄山は怒りにまかせて海青を八裂にしてしまった。王維はそのことを聞き伝えてこの詩を詠んだという」とあります。出典は玄宗時代の逸話集「明皇雑録」。

そして、王維は次のような詩(五言絶句)も詠じています。これが彼の未来を救います。

安得捨塵網
払衣辞世喧
悠然策□□
帰向桃花源

安くにか塵網を捨つるを得て
衣を払いて世の喧しきを辞し
悠然としてレイジョウを策き
帰りて桃花源に向かわん


何とかして世俗のしがらみを捨て、衣の塵を払って世間の騒音に別れを告げ、ゆったりとくつろいであかざのつえをつき、桃花源に帰ってゆきたいものだ。(石川忠久氏の「王維一〇〇選」P253~254)

王維は獄中にあってこの詩を詠じました。「塵網」は「けがれた網、つまり、世間のしがらみ」。先日紹介した陶淵明の「園田の居に帰る 其一」にも出てきました。最後の句の「桃花源」は言わずと知れた「桃花源の記」。陶淵明への傾倒を夢に見ます。「払衣」は「衣の塵を払って辞去する、つまり、隠遁すること」。「レイジョウ」は「令丞」「令嬢」「礼状」「令状」「霊場」「礼譲」ではないですよ~。正解は「藜杖」、「あかざのつえ」です。「策き」は「つ・き」と訓む。

石川氏の解説によると、「757年の初めに安禄山は子の安慶緒に殺され、秋には一時、乱も終息にむかうかにみえた。玄宗のあとを継いだ粛宋は長安にもどり、十月には王維も唐軍に救われたが、敵に仕えた偽官として処罰されることになった」といいます。岩波文庫の「王維詩選」によると、「この詩は粛宋の耳に入って、王維が本心から賊に降ったのではないことがわかっていたため、乱後の処分が軽くすんだと言われている」とあります。本来なら死刑になるところを、降格にとどまりました。詩の内容が前王朝への忠誠心を表したものと理解されたのです。弟の王縉による切実なる助命嘆願も功を奏したといいます。

杜甫も同じように賊軍の囚われの身となりましたが、自力で脱出したことが評価され、天子を諌める官職を得ました。乱後、王維と同僚となった時、次のような詩(五言律詩)を王維に贈りました。王維の方が先輩です。傷心の先輩に深い同情をささげています。(「王維一〇〇選」P258~260)訓み下し分のみ。

王中允維に贈り奉る

中允声名久し
如今ケッカツ深し
共に伝う庾信を収むと
比せず陳琳を得たるに
一病明主に縁る
三年独り此の心
キュウシュウ応に作有るべし
試みに誦せ白頭吟


中允の王維どのは詩人としてつとに名声を得ておられ、いま、非常に深く苦しんでおられる。世人はみな、敵前逃亡しても臣下として迎えられたかの庾信のような、りっぱな人物と伝えている。最初は袁紹に仕えておきながら、曹操の部下となった陳琳のような輩とはくらべようもない。賊軍に捕らわれて口がきけないふりをしたのも、ひとえに天子への忠心からしたこと。獄に下され、三年間ひたすら唐王朝への忠誠を貫かれた。その苦しみに憂えた間に、きっと詩作がおありのはずです。ちょっとあなたさまの「白頭吟」をお聞かせくださいませな。

「ケッカツ」は「契闊」。苦労すること。「死生契闊」をお忘れなく。
「キュウシュウ」は浮かびますか?「仇讐」「鳩聚」「翕習」ではない。常用漢字ですが、やや難しい。正解は「窮愁」。貧乏で難儀をしていることからくる深い悲しみ。杜甫がよく使う語彙です。「窮賤」(キュウセン)は「貧乏」、「窮巷」(キュウコウ)、「窮閻」(キュウエン)は「むさくるしげな場末の町」、「窮涸」(キュウコ)は「金がつきはて生活に苦しむこと」。「窮~」という熟語は数多いので要注意です。

詩人はどんな境遇に置かれても自分自身を詠じるしか道はない。それが自らの運命を切り開くのです。それが分かる者同士だからこそ杜甫は王維に贈ったのでしょう。いずれにせよ安禄山の乱は王維の心に傷を残した事件だったようです。陶淵明が追い求めた隠逸の世界へと急速に傾き始めるきっかけとなりました。誰しもあるでしょう。心に負った傷が。そして、それを癒すにはもはや従前のありきたりのものではダメなのです。

旅人・芭蕉の憧れは田園に帰った「あの人」?=漢詩学習

行く春や鳥啼魚の目は泪

松尾芭蕉が奥の細道の旅立ちの場面で詠んだ有名な句です。これは、あの中国の隠逸詩人、陶淵明の「園田の居に帰る」のある一節を下敷きにしているとされます。さて、どこでしょう?

「帰園田居其一」。訓み下し文だけでご容赦ください。

少きより俗に適する韻無く
性 本丘山を愛す
誤って塵網の中に落ち
一去十三年
羈鳥旧林を恋い
池魚故淵を思う
荒を南野の際に開かんと
拙を守って園田に帰る
方宅十余畝
草屋八九間
楡柳後簷を蔭い
桃李堂前に羅なる
曖曖たり遠人の村
依依たり墟里の煙
狗は吠ゆ深巷の中
鶏は鳴く桑樹の巓
戸庭塵雑無く
虚室予有り
久しく樊籠の裏に在りしも
復た自然に返るを得たり


ちょっと長いですがいかがですか。石川忠久氏の「陶淵明詩選」(NHKライブラリー、P117)によると、「詩の後半は、ほとんどが対句仕立てで調子よい」とあります。確かに、「曖曖たり遠人の村 依依たり墟里の煙」の二句が傑出していると言います。「遠くの村里から立ちのぼる夕餉の煙には、何ともいえない心の安らぎがあると指摘。その次の「狗と鶏の句」も印象深いとして、「単なる実景描写ではなく、平和なユートピアの象徴。漢代の古詩の『鶏は鳴く高樹の巓 狗は吠ゆ深宮の中』をもじったもので、もとは『老子』に基づく」と解説しています。「老子」にある理想社会を描いた「小国寡眠」の章に、「隣国相望み 鶏犬の声相聞こえ 民老死に至るまで相往来せず」となっています。

芭蕉は「鳥」と「魚」を詠んでいる。「羈鳥旧林を恋い 池魚故淵を思う」が正解ですね。「望郷の思い」を籠の鳥と池の魚に託しています。雁字搦めの生活から抜け出したい。一方、芭蕉の句は、惜春の情に、これからの前途三千里の旅路の行く末を案じつつ、江戸にいる知人たちとの惜別の思いを重ねています。淵明は13年間続けた宮仕えに倦んで故郷に戻ろうと決意した。翻って、芭蕉は一堂に見送られて去りがたい思いを募らせている。芭蕉が何を志してみちのくに旅立とうと思ったのかは知りません。当時のみちのく旅行は決死の覚悟だったのではないかと想像はします。

一見すると淵明と芭蕉のそれぞれの詩興は相違うのではないかとも思われます。しかし、共通する思いは「現実逃避」と牽強付会してみました。いや、「逃避」という言葉が少し違うかも。「遊離」。そうそう、「現実からの遊離」。「幽体離脱」。荘子の言うところの「胡蝶之夢」。夢の中で俺が蝶になったのか、それとも蝶が夢で俺になったのか。「彼我」の区別もない曖昧な世界。裏が表で、表が裏で。。。

淵明の詩ですが、重要語彙が目白押しですね。「韻」「塵網」「羈鳥」「故淵」「方宅」「楡柳」「後簷」「羅なる」「曖曖」「依依」「墟里」「深巷」「巓」「塵雑」「樊籠」。

この「園田の居に帰る」は、例の「帰去来兮辞」と表裏を為すと言え、五首連作です。石川氏の解説によると、「“心に適った場所に帰る”場面は、多くの後世の詩人たちの共感を呼んだ」と記しています。「古人も多く旅に死せるあり」と言った「奥の細道」も、実はいわば「旅」をやめて故郷に帰ることができた淵明への憧れの「裏返し」ではないか。自分にとっての相応しい故郷を見つける旅だったのではないかとも迂生は思うのです。いや、奥の細道にかぎらず、芭蕉は常に故郷を追い求めていたのではないか。僭越なる一知半解ですが。。。

輦を辞した「斑婕」 秋に用なき団扇哀し=漢詩学習

本日は斑婕(ハンショウヨ)の「怨歌行」(エンカコウ)。姓が斑、名は伝わらず、婕は皇妃の位の一つ。漢の成帝(BC51~BC7)の即位(BC32)後まもなく後宮に入り、成帝の死後もしばらくは生きていたことから、その生存期間をほぼBC1世紀の後半と推定できる、と「漢詩鑑賞事典」(P29)にあります。

漢検1級受験者なら「班女辞輦」という四字熟語は覚えているでしょう。かの「蒙求」に載っています。「漢詩鑑賞事典」によりますと、「ある時、成帝は斑婕と輦(てぐるま)を共にしようとしたことがあった。彼女は、『昔の名君の絵を見ますと、かたわらに賢臣がおります。ところが、暴君のかたわらには女が侍っています。わたくしは、陛下を暴君にしたくはありません』と辞退した」と解説されています。

そんな聡明なる女性だったんですが、「やがて帝の愛は趙飛燕とその妹に移って行く。趙飛燕姉妹が嫉妬深く驕慢であることを知った彼女は、自分から帝に請うて皇太后づきとなり、長信宮にさがった」という。身を引いた女性の哀れな末路を歌った詩です。

「怨歌行」(五言古詩)

新裂斉紈素
□□如霜雪
裁為□□
団団似明月
出入君懐袖
動揺微風発
常恐秋節至
涼風奪炎熱
□□□□
恩情中道絶


新たに斉の紈素を裂けば
コウケツにして霜雪の如し
裁ちてゴウカン扇と為せば
団団として明月に似たり
君の懐袖に出入し
動揺して微風発す
常に恐る秋節至り
涼風炎熱を奪い
キョウシの中にキエンせられ
恩情中道にて絶えんことを


新しく練り絹を下ろすと、やはり名にし負う斉の国の生地です。その白さ、清らかさと言ったら、まるで霜か雪のようです。型紙に合わせて裁ち、両面張りの合わせ団扇としますと、まんまるのおもては満月のようです。夏の暑いさなか、あなたの懐や袖に入ってお伴をいたしました。ときどき、揺れてゆらゆら、いい風をおくり出しました。ところが、夏が過ぎ秋がくると…と考えるだにわたくしはたまらない気持になるのです。涼しい秋風が夏の熱気を追っ払い、やがて団扇もタンスの中に打ち捨てられ、もうお忘れになるのでしょうね。あんなにあった恩愛も、中途半端に途絶えてしまうのかしら。

「怨歌行」は「愛されない嘆きを主題とする楽府の題名」。この「行」は「歌のこと」。
「紈素」は「白い練り絹。斉(山東省)の名産」。「紈」は配当外で「しろぎぬ」。「コウケツ」はいかがでしょう?同音異義語では「絳闕」「耗竭」「膏血」「纐纈」などがあります。常用漢字なら「高潔」もある。ここは、斉の名産品である「紈素」が霜や雪のように白いと譬えており、正解は「皎潔」。難しいか。「皎」は「しろい」。「皎潔」は「態度やようすが白くてけがれのないさま」。「キョウケツ」とも読みます。漢検漢字辞典の見出し語にはあるので要注意かも知れません。

次に「ゴウカン」。当然ですが「強姦」を想起しては危険すぎます。じゃあ、どんな漢字が浮かぶかなんですが、難しいですね。「合歓綢繆」を想起しましょう。これも結構危険な言葉ですが「合歓」は「愛し合う男女がむつまじくすること」。「合歓扇」(ゴウカンセン)で「両面に布や紙を張ってある合わせ団扇」をいう。愛するあなたへの思いが込められていることは言うまでもありません。「キョウシ」は「衣装箪笥」のことで「篋笥」。むずかしいかな。「キエン」は捨て去ることですから「棄捐」が正解。それぞれ同音異義語は「享祀」「僑士」「喬志」「僵尸」「嬌姿」「狂恣」「轎子」「饗賜」「驕侈」「驕肆」「驕恣」、「企羨」「几筵」「喟焉」「奇羨」「気焔」「奇縁」など多いので要注意です。

同書の「鑑賞」(P31)によると、「この楽府にはどんな曲がついていたのであろう。きっと切ないほど哀しいメロディーであったに違いない。その哀しさにはべとつきがない。すなわち、この詩のおもしろさは、失われようとしている愛を団扇に託してさらりと言ってのけたところにある」といいます。

1、2句は団扇の素材が素晴らしいことを詠いあげている。これは斑婕の天性の美しさを讃辞する。仕立てられた団扇の見事さを描く3、4句は、彼女の美しさに磨きがかかったことをいう。そして、5、6句は、成帝のおそばで寵愛をほしいままにしたことを自慢。もっとも、それ以降は不安の連続ですが。そして、その不安の根拠がライヴァル・趙飛燕姉妹の存在です。帝のお気持ちがうつろいだのです。1週間に1度だったお渡りが、月に1度、2月に1度とまばらになり、やがてはまつ身の辛さ。時間だけが異様に流れていく。団扇にたとえていた自分は考えれば、夏の間の暑い盛りにだけ有用だったのではないか。秋になったらもういらない存在。飽きられて棄てられる。物悲しい気持を団扇に託した斑婕のウイットといいますか、なにかしらユーモアのセンスも感じられます。「団扇」は「ダンセン」と読みます。

団扇の独り言。

「ああ、あなた。。。秋(飽き)が来ても棄てないで…」。

「ああ、あのとき恰好つけずに輦に乗っておけば…」。

「漢詩国民投票」1位は杜甫の春望、では2位は…?=漢詩学習

ちょっとばかり面白い本を見つけました。日本漢詩界の泰斗、石川忠久氏と万葉集研究で知られる国文学者、中西進氏の「漢詩歓談」(2004年初版、大修館書店)です。というのも、その中に「付録 日本人の好きな漢詩」と題して「漢詩国民投票」集計結果なるものが掲載されています。大修館書店が発刊する雑誌「月刊しにか」(SINICA)誌上で02年4~6月、読者を対象としてアンケート集計した結果のランキング(作品・詩人部門ともに一人最大3票まで)が出ているのです。しかし、総投票者数は363人ですから国民投票というのはいささか大袈裟。とはいえ、漢詩好きの目の肥えた読者諸氏の結果であることは言うまでもないですね。

さて、第一位に輝いた詩は何だと思いますか?これはお分かりでしょう。日本人の心情に合致するものです。

そう、杜甫の「春望」。84票でした。芭蕉が「奥の細道」では、「国破れて山河あり 城春にして草木青みたり」と唯一杜甫の詩を引いている。ただ、「春望」では「深」であって、「青みたり」ではないですが、一説によりますと、奥の細道で「青々たり」となっているのもみつかっているようです。杜甫が「国破れて」というのは、安禄山の乱で長安の都が反乱軍によって占領されたことをいうのですが、日本人からすれば太平洋戦争の敗戦と絡むのかもしれませんと石川氏がコメントしています。芭蕉も引用したくらいですから江戸時代から「春望」は知識人の間では流布していたのでしょうね。

ランキングは全部挙げてもいいのですが、べったり写すと著作権上問題かもしれないのでやめておきます。ご興味がある方はご購入してください。

部分ならいいでしょう。本日は第二位にランクした杜牧の「江南の春」を味わうことにします。集めた票数は46.「春望」とはかなりの懸隔がありますね。第三位王維の「元二の安西に使いするを送る」(40票)とはほぼ並びです。杜牧の詩では最も有名で人気があると言っていいでしょう。迂生の第一印象ですが、とにかく色鮮やかで明るい。そして、前半と後半の対照的な描写の変化に虚を突かれます。


「漢詩鑑賞事典」(講談社学術文庫、P544~547)

千里鶯啼緑映紅
水村山郭酒旗風
南朝四百八十寺
多少楼台煙雨中

千里鶯啼いて緑紅に映ず
水村山郭酒旗の風
南朝四百八十寺
多少の楼台煙雨の中


見渡す限り遥かかなたにまで届くほど鶯が鳴きそやす。新緑の若葉が深紅の花々とコントラストをつくっている。水辺の村にも山辺の郭(まち)にも、酒を売る店が旗を出し、春風にそよいでいる。ああ、かつてここには南朝四百八十の寺々栄えたのだが、今はいかばかりの高殿が、雨にかすむ景色にその姿をとどめているのだろう。

「江南」というのは、長江(揚子江)下流の南の地方。現在の江蘇省南部、安徽省の一部、そして浙江省北部にわたる一帯を指します。

「山郭」は「山裾の村」。中国では町も村も城郭をめぐらしている。城は内側の囲い、郭は外側の囲いのことで、ここでいう郭は同時に村そのものも指している。

「酒旗」は「酒屋が看板にしているのぼり。青または白の布を竹竿につけてある」。「酒旆」(シュハイ)や「酒帘」(シュレン、「帘」は配当外で「はた、たれまく」)という言い方も覚えておきましょう。

「南朝」は、この地一帯に国を建て「建康」(いまの江蘇省南京市、唐代には金陵といった)に都をおいた、宋、斉、梁、陳の王朝(420~589)をいう。その前の呉、東晋を加え六朝(リクチョウ)ということも。
「四百八十寺」(シヒャクハッシンジ)は、寺の数の多さを表しているのですが、注意すべきは「十」を「シン」と読むことです。平仄の関係で「十」を「ジュウ」(入声=ニッショウ)と読むと、配列がいずれも仄声になってしまい、「望ましくない」(同書)とある。そこで、「十」には「シン」(・平声=ヒョウセイ)の音があるので古来「シン」と読んでいる。そうした例は杜甫や白居易をはじめ、ほかの詩でも多くあります。ま、漢検ではさすがにそこの読みまでは問いませんが。。。

「多少」は「多くの」。「多」に意味の重点がある「偏義複詞(辞)」というやつです。「一旦緩急」も「急」の意味に重きがある。こうした例は「父兄」「動静」「異同」「去留」など、たくさんあります(順に「父」「動」「異」「去」に重きがある)。またいつか詳しく触れたいと思います。

「煙雨」は「小糠雨」あるいは「霧雨」。

同書の「鑑賞」によりますと、「前半は晴天の農村風景。後半は雨の古都のたたずまい。…(中略)…この詩は、前半と後半とでは天候も背景も大きく異なっているが、これは矛盾なのであろうか。そうではない。ここで、あらためて『江南の春』という題に注目したい。つまり杜牧は、この二十八文字の詩の世界に、『江南の春』ということばによって思い浮かべられる、すべてのイメージをうたいこんだのである。前半と後半はバラバラなのではない。明るい農村の風景と懐古ムードとが渾然一体となって、江南地方の春の情景を描き出して余すところがない」という。

「補説」では、芭蕉の高弟である服部嵐雪に「鯊つるや水村山郭酒旗の風」の句があると紹介しています。まさに杜牧の「江南の春」を本歌取りしていますね。

さて、「江南の春」がなぜかくも人気を集めたのでしょうか。この詩が絵画みたいだからじゃないでしょうか。その構図は、石川氏が指摘したように「江南」といえば思い浮かぶありとあらゆるものをあしらっている。「緑映紅」というのはさながら油絵のようでもあり、「煙雨」というかすんだ風景は水墨画のようでもある。鶯の啼き声も聞こえる。「水」「山」「風」。自然そのもの。「酒旗」「寺」「楼台」。人々の生活に密着したもの。二十八字しかないのに、かくも多くのものが盛り込めることに驚きを覚えますね。
よく考えれば、漢字にはそうしたことを可能にする力がある。凝縮したイメージ。ビジュアルのイメージ。音のイメージ。漢詩の魅力はまさにそうした漢字の連なりだということです。

「貴妃」の色香にぼ~絶頂期が一番危ないよ李白殿=漢詩学習

本日は李白の「清平調詩 三首」(いずれも七言律詩)。岩波文庫「李白詩選」(P57~62)によると、「玄宗は太真妃(楊貴妃)と牡丹花の美しさを愛でるため、玄宗皇帝が翰林供奉の職にあった李白に、新しい詩歌を作らせた」とあり、「李白は、二日酔いが醒めない状態だったが、即座に筆をとって…(略)…書き上げた」。この詩の素晴らしい出来栄えに感動した玄宗は以後、学士の中で李白を重用するようになったといいますが、実はこれには後日談というか、李白自身の首を絞めるエピソードがあるのです。その顛末は詩を味わった後で。。。本日も三首共にpunch-lineをカタカナ問題といたしますのでご了承ください。読み下し文のみ

【其一】

雲には衣裳を想い 花には容を想う
春風 檻を払って 露華濃やかなり
若し 群玉山頭に見るに非ずんば
会ず ヨウダイの月下に向いて逢わん


【其二】

一枝の紅艶 露 香を凝らす
雲雨 巫山 枉しく断腸
借問す 漢宮 誰か似るを得たる
可憐なり 飛燕 シンショウに倚る


【其三】

名花 傾国 両つながら相歓ぶ
長しえに 君王の 笑いを帯びて看るを得たり
解釈す 春風無限の恨み
沈香亭北 ランカンに倚る


【その一】

美しい雲は貴妃の衣裳のよう、美しい花は貴妃の顔(かんばせ)のよう。春風が宮殿のおばしまを吹きわたり、夜露が濃やかにきらきらときらめく。ああ、これほどの美しき人には、あの不老不死の西王母の住む「群玉山」のいただきでなければ、きっと神仙の住むという宮殿の月光のなかでしかお逢いできないだろう。

楊貴妃への賛辞の嵐ですね。「群玉山」は、「穆天子伝」(巻二)に「群玉の山に至る」とあり、郭璞注に「即ち山海(経)に“群玉山は西王母の居る所”と云う者なり」とある。「会ず」は訓めますか?漢詩ではときどきお目にかかります。「かなら・ず」と訓んでください。さて、「ヨウダイ」。「容体(容態)」や隋王朝の「煬帝」じゃないですよ~。ちょっと難しいかも。「ヨウ」は1級配当漢字ですがあまり馴染はないかも。「ヨウリンケイジュ」という四字熟語くらいですかね。正解は「瑶台」。月の異称でもあります。これを機に覚えましょう。出たら泣くに泣けない。「瑶林瓊樹」は「人品が卑しくなく高潔で、人並みすぐれている」意で、「瑶」も「瓊」も「たま」のこと。

【その二】

紅く艶やかな牡丹の花がひと枝。それは露を含んで濃密な香りを漂わせる。雲と成り雨となると契った巫山の神女さえも、この貴妃の美しさの前ではとてもとてもかなうまい。ちょっとお尋ねするが、あまたいる漢の後宮の美女のなかでどなたがこの貴妃に似ているというのでしょう。ああ、なんと華やかな、―そうそう例の趙飛燕さまの直したての自慢のご尊顔くらいでしょうか。

「巫山雲雨」はエロチックな四字熟語。昔、楚の先王が、楚の雲夢の沢にあった高唐のうてなに遊び、昼寝の夢の中で巫山の神女と契った。神女は別れ際に「妾は巫山のみなみ、高丘の岨に在り。旦には朝雲と為り、暮には行雨と為る。朝々暮々、陽台の下」と述べた。翌朝、王が見ると、果たしてその言葉通りだったため、神女のために廟を立てて「朝雲」と名付けたという故事。男女のむつびあいをいう。「枉」は少し難しい用法。通常は「まげる」という意味だが、ここでは副詞用法で「むな・しく」と訓んで、「いたずらに、その甲斐もなく」。「借問」は漢詩では必須語。「シャモン」と読みたいところ。軽く問いかける時の慣用語です。「可憐」も必須語。プラスにもマイナスにも感情の激しさを表す慣用語。現在日本で用いる「可憐な少女」とはちょっと意味が違うので要注意です。

「飛燕」は前漢の成帝の皇后、趙飛燕のこと。やせ形で身の軽い、漢代随一の美人の誉れが高かった。さて、「シンショウ」です。同音異義語は「宸章」「振慴」「振懾」「新嘗」「晨鐘」「森聳」「臣妾」「薪樵」「震悚」「哂笑」「震懾」など目白押し(落語の「志ん生」師匠でもないですよ)ですが、ここは比較的平易な漢字で。正解は「新粧(妝)」。化粧したての姿。「倚る」は「恃みとして自身を持つこと」。

【その三】

名高い牡丹の花と傾国の美女が、たがいにその美しさをめであう。天子さまは楽しそうで両方とも眺めていても飽きられることがない。春風ゆえに生まれる無限の恨み、その欝屈を解きほぐすかのように、沈香亭の北にいて、手すりにもたれた妃のあでやかさといったらこの上もない。

「沈香亭」は、沈香でできたあずまや。興慶宮の竜池の東南にあったという。いまも興慶公園の沈香亭と名付け復元されている。「ランカン」は平易でしょう。「その一」で「おばしま」(檻)とありましたが、ここは「闌干」が正解。ただし、「ランカン」は幾つかあって「欄檻」「闌檻」「欄干」も正解ですかね(平仄は分かりませんが)。こっちの「倚る」は「もたれる。よりかかる」。

さて、李白が掘った「墓穴」というのはこうです。同書によると、玄宗の側近の官宦、高力士(コウリキシ)は、かつて宴席で李白に彼の靴を脱がさせられたことを恨みに思っていた。この「清平調詩」の第二首に詠われた「趙飛燕」を持ち出して、楊貴妃にこう讒言したのです。「趙飛燕は漢代随一の美女ですが、後年、王莽に弾劾されて庶民となり、自殺しております。かような女に楊貴妃さまをなぞらえたのです。かような不遜なことがありましょうか」。。。これが貴妃を通じて玄宗に伝わり、「かようなものを登用されることには反対いたしますわ」―。愛する女からこう言われればたじたじの玄宗もついには李白を退けることになったといいます。

「漢詩鑑賞事典」(講談社学術文庫、P214~216)の「鑑賞」には李白の“勇み足”についてこう述べています。「このころの楊貴妃は二十四、五歳、妖艶のきわみだったのだろう。思うに李白は、その美しさを間近に見て、ボーッとなったにちがいない。『露華濃やかなり』とか、「紅艶露香を凝らす」とか、花にことよせて、かなり濃厚な表現をしている。そして全体に、上っ調子な形容がめだつのもふだんの李白らしくない、というと言い過ぎであろうか。今と違って、昔は、宮中の奥深くいる人の姿など見ることのできる人はごく数少ない。楊貴妃が美人だ、美人だといっても、じかに顔を拝めるなど、夢にも考えられないことだったろう。それが、今宵は、牡丹の美しさと貴妃の美しさを詠じてみよ、とのご沙汰であるから、それこそそばへ寄って拝むことになったのだからドギマギするのも無理はない。二首目では調子にのって貴妃を趙飛燕になぞらえたものだから、飛燕のごとき素姓のいやしい者に比すとは何ごと、と告げ口されて、失脚するに至った、という」という。

いつの世も絶頂期といいますか、調子に乗り過ぎた時が一番危ないのです。シンプルな言葉で言えば「好事魔多し」。絶世の美女を拝めるばかりか、ありたけのおべっかを使って褒めそやし、皇帝の覚えも目出度くなったまでは良かったが、その背後に忍び寄る殃い。言葉が滑れば、待ってましたとばかり足元を掬う奴がいるのです。ま、いいじゃん。一瞬であれ楊貴妃と同じ空気を吸い、そばで臭い、じゃなかった匂いをかげたんだからさ。春の夜の夢。。一夜限りのなんとかで、絶頂から谷底にすとーんと落ちる「ジェットコースター・ストーリー」。その後、李白の流浪人生がはじまります。ときに李白、43、44歳といいますから、う~ん、迂生も身につまされますなぁ。。。。

「楊貴妃」の笑いに隠された謎とは?=漢詩学習

中国四大美女の最後は楊貴妃です。以前弊blogで白居易の「長恨歌」シリーズで詳しく味わいましたが、古来、ほかの美女に負けず劣らず詩人にとって題材となっております。楊貴妃と言えば、唐代の玄宗皇帝の身も心もとろとろに溶かし俘にした「怪しい色香」が最大の武器。彼女の妙に艶めかしい描写が長恨歌にも全編にわたって盛られていましたよね。
本日は杜牧の詩を見ながら学習を進めます。


杜牧には楊貴妃を詠んだ詩(五言絶句)が三首連作であります。いずれもそれぞれのpunch-line(キーワード、落ち)と思われる「語句」を問題にしてみました。詠み下し文のみ。「岩波文庫「杜牧詩選」P60~67」からです。

「過華清宮絶句」(華清宮に過る 絶句)

【其の一】

長安より廻望すれば 繍 堆を成す
山頂の千門 次第に開く
一騎の紅塵 妃子笑う
人の是れレイシの来るを知る無し


【其の二】

新豊の緑樹に 黄埃起こり
数騎の漁陽の探使廻る
ゲイショウの一曲 千峰の上
中原を舞破して 始めて下り来る


【其の三】

万国笙歌して 太平に酔い
天に倚る楼殿 月分明なり
雲中に拍を乱して 禄山舞い
風はチョウランを過ぎて 笑声下る


【その一】

長安からこうべをめぐらしはるか遠くを眺めると、驪山はさながら美しい錦繡が積み重なっているようだ。山頂へと続く宮殿の門が次々と開かれていく。急駛の早馬が土埃を巻き上げて走り入ると、楊貴妃さまは嫣然と笑った。誰が知ろうか、遠路南からはるばる運ばれていた珍菓・ライチーだということを。

驪山は唐の都長安の東約25キロ(現在の陝西省臨潼県城の南)。その北麓には「華清宮」という温泉離宮があった。海抜1300メートル、西繍嶺と東繍嶺から成り、西繍嶺下が温泉保養地。「華清宮」は747年、玄宗皇帝が寵愛する楊貴妃のために、もともとあった温泉宮を大改造築した。「華(うるわ)しく輝き、清らかに澄みわたる」温泉の意。冬場の三カ月を楽しく暮らした。長恨歌でたっぷり歌われていました。「紅塵」は「黄塵」(その二では黄埃と表現)と同義ですが、楊貴妃の放つ“色香ビーム”では「紅」の方がお似合いでしょう。さて、「レイシ」。これしかないですね、「茘枝」。蜀出身の楊貴妃は茘枝が大好物。果肉は白く口中にほどよい甘みが広がります。皮をむいて食べますね、迂生も好きですよ。しかし、茘枝はすぐ腐るので早馬で嶺南から届けさせなければならない。人も馬も茘枝を運んだあとはへとへとに羸弱し倒れるとのことです。

【その二】

新豊付近の緑なす木々の隙間から、黄色い早馬の砂煙が沸き起こる。安禄山の動静を探りに漁陽に赴いていた使者たちが帰ってきたのだ。「ゲイショウウイ」の舞曲が緩やかな余韻と共に無数の峰々に消えてゆく。玄宗さまが歓楽にふけっているその間に都の地が陥落しまった。まさに遅きに失した驪山からの都落ちではなかろうか。。。

「新豊」は漢代の県名。唐代では京兆府照応県城(現在の臨潼県)の東北約9キロ、現在の新豊鎮。「漁陽」は唐代の郡名で現在の北京市。安禄山が放棄した拠点だった。玄宗が使いを出して反乱の意思があるかどうかを個人的に確かめさせたという。さて、「ゲイショウ」ですが、これはもう「霓裳羽衣」の「霓裳」しかないですね。四字熟語問題でも故事成語問題でも狙われるでしょう。大空を自在に飛翔する仙女を連想させる「霓(にじ)の裳(もすそ)、羽の衣」の名を持つ宮廷舞曲。西域(Brahmanインド)から伝来し、玄宗が編曲したものとされる。緩慢なリズムながら、余韻を引く情感たっぷりの舞踏曲だったらしい。「中原」は、東都・洛陽を中心とする河南省一帯の地。安禄山は755年11月9日挙兵し、12月には洛陽を占領した。

【その三】

天下のいたるところ、人民の笙や歌声が響き、太平の世に酔いしれる。天空にぞびえる高大なる宮殿は、明るい月の光につつまれ、さながら雲中で安禄山が胡旋舞を踊りだすや、宮女の相の手も合わせるのが難しい。重なり合う峰々を吹きわたる風にのって、にぎやかな笑い声が麓にまでおりてくる。

その三はすこし時間をさかのぼるようです。「笙歌」は問題にしてもいいですね。「ショウ」が「笙」と浮かぶかどうかです。「乱拍」は、でっぷり肥った安禄山が、胡旋舞(中央アジアのソグディアナ地方から伝わった、風のように右に左にくるくると旋回する舞踊)を踊りだすや、楊貴妃を始め宮女たちは、その剽軽な姿に笑い転げ、しかも、その旋廻の早さに手拍子が狂ってしまうことをいう。晩年の禄山は体重が350斤(約210キロ)もあり、腹が膝の下まで垂れ、左右の支えでようやく歩けたとありますが、胡旋舞を舞うときだけは人が変ったように風に酔うようにすばやく踊り続けたのです。白居易の「胡旋女 近習を戒むるなり」(石川忠久氏の「白楽天一〇〇選」)には「中には太真(楊貴妃のこと)有り 外には禄山 二人最も道う能く胡旋すと」や「貴妃 胡旋して君が心を惑わし 死して馬嵬に棄つるも念うこと更に深し」の句があり、石川氏も「当時、胡旋舞がもてはやされていたことから、楊貴妃もこれが上手だった可能性はある」と指摘しています。さて、「チョウラン」です。「雕欄」でないのは明らかなので正解は「重巒」。「巒」(やまなみ、みね)が1級配当の重要漢字。「巒丘」(ランキュウ)、「巒壑」(ランガク=やまとたに)、「層巒」(ソウラン)、「峰巒」(ホウラン)、「岡巒」(コウラン)などをしっかり押さえておきましょう。

杜牧の詩は明らかに白居易の「長恨歌」をベースにして、暢気な玄宗皇帝と楊貴妃、それに安禄山を揶揄している感じがします。

「杜牧詩選」(P62)によると、その一にある「一騎の紅塵 妃子笑う」の解釈には異説もあるとあります。驪山にまつわる故事(周代の幽王が寵妃褒姒=ホウジ=を笑わせるために、偽りの烽火をあげて国を亡ぼした)が投影されているため、「一騎の紅塵」は慌てて馳せ参じる諸侯の軍馬の沙塵を、さらに「笑」は慌てふためく諸侯を見た褒姒の不気味な笑いを連想させる、とあります。「褒姒」の故事は有名ですね。なかなか笑わない褒姒のために幽圧は何もないのに夷狄の侵入を知らせる烽火をあげてみた。すると、すわお国の一大事とこぞって集まった諸侯の慌てぶりと、「うそよ~ん、うそピー」なんて軽いタッチで言われた時の「啞然ぶり」をみた褒姒が初めて笑ったのです。そして、本当に敵が襲ってきたときに烽火をあげてもだれも助けに来なかったというおきまりの落ち。この故事は驪山が舞台でした。狼少年ならぬ、狼王様ですね。わらわん女も女だが、国の大事を女の媚を得るために使うなんざ、愚の骨頂もはなはだしい。麻生太郎みたいだ。選挙をやるために総理大臣になったのに、「百年に一度の経済危機」を好機到来とばかり、選挙を先送りし、大盤振る舞いのばら蒔きで選挙民の歓心を買おうと躍起になったが、滑りに滑って襤褸の出しまくり。追い込まれた任期満了近くの解散で、案の定、選挙民から見放されて襤褸負け。他国の危機を自国の危機にすり替えましたね。迂生は今でもそのセンスは疑うわ。あの時選挙をやっていれば。。。もういまさら言うまい。ぽっぽ鳩山政権に期待しましょう。

閑話休題。楊貴妃です。茘枝がとどいてほくそ笑んだのか、安禄山の蜂起を予感してかはわかりませんが、世の中の不吉な前兆はどこかにあるものです。常に怠らずに注視しなければなりません。いつまでも馬鹿みたいに笑っている場合ではないですよね。楊貴妃シリーズは次回も続きます。

杜牧に倣い「鬢糸茶煙」の境地へ=漢詩学習

晩唐の杜牧(803~852)はご存知ですか。「杜」つながりで杜甫のことを「老杜」というのに対し、杜牧は「小杜」と称される。「小」は「小さい」ではなくて「若い」という意味です。同じく晩唐の李商隠とともに「晩唐の杜李」とも称されます。彼の詩で迂生が簡単でお気に入りなのが「題禅院」(禅院に題す)。♪あの頃は~若かった~♪今はもう年老いたけど悔いはない。だって自分が確かに歩んだ人生だもの。―そう思える詩です。ご堪能あれ。

「杜牧詩選」(岩波文庫、P221~223)

觥船一棹百分空
十歳青春不負公
今日□□禅榻畔
□□軽颺落花風



觥船一棹すれば 百分空し
十歳の青春 公に負かず
今日 ビンシ 禅榻の畔
サエン軽く颺る 落花の風



大きな舟形のさかずきを、ぐいと棹すように傾ける。酒は一気に飲み干される。若いころの青春の日々、杜牧よ、お前は自分の生きたいように生きた。そして、今、髪の色は白くなり、寺院のこしかけに腰をおろしている。茶を煮る煙が軽やかにゆらぎ上がり、ものぐるおしいまでに花びらが風に散り舞っている。

杜牧49歳の詩です。「觥船」(コウセン)はちょっと難しいですが、これも漢検1級配当。「觥」は「つのさかずき」で見出し語にもあるので訓読み問題に要注意です。船の形をした角製の大杯。「棹す」は「船」の縁語として「こぐ」と掛けた。大杯を傾けて一気に飲み干すさまを表しています。「十歳」は十年間のことですが、杜牧の若き放蕩の日々を言い表わしている。「公に負かず」は「わが本性のままに生きる」。「負く」は「そむ・く」と表外訓み。「公」は丁寧な二人称ですが、ここでは自分に呼び掛けたもの。

さて、「ビンシ」です。ちょっと難しいですが正解は「鬢糸」。音を大事にしましょう。「鬢」は耳際の髪の毛で、それが絹糸のように白く細かなさまを言っています。言い換えれば、白髪の老人。「鬢」は1級配当ですから必須ですが、寧ろ「糸」の方が浮かびにくいかもしれません。「柳糸」(リュウシ)や「雨糸」(ウシ)などか細いものの形容で用いられます。「禅榻」は「寺院におかれた横長の、低くて小さな腰かけ・床几のたぐい」。「榻」は1級配当で「こしかけ」。「畔」は「ハン」ですが、訓読では「ほとり」と訓み、いわゆる「方位詞」。ここでは、榻に座ること。

「サエン」は「茶烟・茶煙」。お茶を煮た時に風炉から立ち上がるけむりのこと。唐代にはやった「煮茶」(煎茶)。同書によると、「まず戸外の地面に置かれた風炉(鼎形の炉)上の釜(平たい鎬)で、湯を沸かす。そして茶の粉末を入れてかきまぜ、湯の華が立った茶湯を汲み出し、碗に入れた後、飲み手のもとに運ばれた」とある。続けて、「杜牧は晩年、糖尿病(消渇)を患っていた。妓楼ならぬ禅院で、美酒ならぬ養生の茶を味わう」とある。「颺る」(ヨウ)は配当外で「ゆらめき上る」の意。

「鬢糸茶煙(烟)」は故事成語問題で出てもおかしくないでしょう。あるいは四字熟語か。成語林によると、「鬢糸茶煙の感」とあって、「白髪の混じった鬢の毛が、茶を焙じる煙の中に漂うように見えているときの感慨。若い時は酒を飲み遊びにふけっていたが、いまは年も老い、枯淡な生活を楽しんでいるという境地をいう」とある。

「枯淡」かぁ。いい言葉かもね。ただ枯れるんじゃないですよ。さっぱりとしていなければならない。これって簡単ではないですよね。いたずらに年を重ねるだけではだめ。体が健康でなくてはならない。五体満足ですね。そして何より気持が恬淡としていないといけない。欲望を剥き出しにして齷齪しないこと。いたずらに追い求めもせず、いたずらに排除することもない。「おのれの進むが道」を淡々と進む。来る者がいれば共に愉しみ、去りゆくものは無理に引き留めない。いつか、できうればそう遠くない時期に「鬢糸茶煙」の境地に至りたいものです。でも、それすらも強く求めなくなるのが「至境」なんでしょうなぁ。今はとてもとても無理です。

マストアイテムは泛菊酒と茱萸実の「重陽の節句」=漢詩学習

本日9月9日は五節句のひとつ、重陽の節句です。わが国ではあまり重用されませんが、中国では古来、人々の秋の大行事であって、高いところに登って酒を飲んで、邪気を払う風習があります。ちなみに蛇足ですが、旧暦ではいまの10月なので本来はもっと秋が深まり始める菊が咲いている頃です。

初唐の王勃(649~676)に「蜀中九日」(七言絶句)という詩があります。「漢詩鑑賞事典、P77~81」から。

九月九日望郷台
他席他郷送客杯
人情已厭南中苦
□□那従北地来


九月九日望郷台
他席他郷客を送るの杯
人情已に厭う南中の苦
コウガン那ぞ北地より来たる


九月九日、望郷台に登る。異郷の地で重陽の宴会に加え、友人の送別会も兼ねている。酒の杯もいつもより進みがはやくなるのも無理からぬというもの。ああ、あきあきした。もううんざりだ。この蜀の生活には。だのになぜ、あのカリは北からわざわざここ南方の地に飛んでくるのか。

「望郷台」というのは、蜀の東部にあるとされた玄武山の高台の名称。同書によると、一説には隋の蜀王秀が築いた成都北部の高台をいう。

同書の「鑑賞」には「この詩は、重陽の節句に望郷の念にかられて作ったもの。沛王の修撰を首になったのち、勃は蜀(四川省)に旅した。その地で友人の盧昭鄰・邵大震と共に重陽の節句を迎え、酒をくみかわしたのであった。旅立つ『客』は邵大震だったらしい」とある。さらに、「前半二句と後半二句が対句仕立ての、いわゆる全対格である」として、第一句の「九月九日」、第二句の「他席他郷」といずれも九と郷を畳みかけています。後半二句も、長安の都や故郷山西省をさす「北地」を思う作者の心境を、北に帰る鳥に託するのではなく、「逆に北からやってくる鳥に対して、どうしてこんないやなところへ……と問うところに機知の冴えがあり、作者の望郷の念が強く迫ってくる」と指摘しています。渡り鳥である「コウガン」です。正解は「鴻雁」。同音異義語のうち、「亢顔」「狎玩」「厚顔」「紅顔」なら許せますが、「睾丸」はダメ。もう一度詩を翫味してください。

盧昭鄰の詩も紹介されています。おそらくこの時のものであろうと同書は指摘しています。

「九月九日登玄武山」

九月九日眺山川
帰心帰望積風塵
他席共酌金花酒
万里同悲鴻雁天


王勃の詩とまったく軌を一にしています。やはりここもpunch-lineは「睾丸」、じゃなかった「鴻雁」です。ちなみに「鴻鴈」ともいいますが、「鴻」はおおきなカリ、「鴈・雁」は普通のカリ。ちなみに「鴻都」と言えば「唐代の第二の都、洛陽のこと」。

重陽の節句で欠かせない小道具に「菊」があります。菊の花びらを酒盃に浮かべて、そのまま飲み、長寿のまじないとしました。

盛唐の岑参(715?~770)も重陽の節句に、異民族征伐の途上にある衛中丞という人の送別会に臨席し、高らかに「餞の言葉」を詠んでいます。岩波文庫「唐詩選(中)、P269~271」から。

「九日使君席奉餞衛中丞赴長水」(七言律詩)

節使横行西出師
鳴弓擐甲羽林児
台上霜風凌草木
軍中殺気傍旌旗
預知漢将宣威日
正是□□欲滅時
為報使君多泛菊
更将絃管酔□□


節使横行して西のかた師を出す
弓を鳴らし甲を擐(ぬ)く 羽林の児
台上の霜風 草木を凌ぎ
軍中の殺気 旌旗に傍う
預め知る 漢将 威を宣ぶるの日は
正に是れコジン 滅せんと欲するの時なるを
為に報ぜん 使君 多く菊を泛べ
更に絃管を将てトウリに酔えと


天子様から割符を授けられた将軍、衛中丞さま。自由自在に西方へ御出陣される。弓弦を鳴らし、甲冑をまとった近衛兵の健児たちをお従えになり、御史台にあったときは秋霜烈日たる勢いは草木をも枯らすほどでした。しかし、いま将軍となられた陣中では殺気にあふれ、旗さしものにもまといついておられます。この将軍がわが漢民族の威力をお示しくださること、そしてえびすの者がいたずらに巻き起こした騒乱のちりが消滅する時であることはもうわかっているのです。ですから、お見送りのみなみなさまにご進言いたします。杯にたくさんの菊を浮かべなさいませ、管弦の調べの中で、あの陶淵明のように東のまがきのもとで思いっきり酔うことにしようではありませんかと。


「コジン」=「胡塵
「トウリ」=「東籬」(陶淵明の「飲酒」にある有名な一節「菊を采る東籬の下」を踏まえた表現)


これも盛唐の王維(699~759)も重陽の節句に望郷の思いを詠んだ詩があります。「漢詩鑑賞事典、P180~183」

独在異郷為異客
毎逢佳節倍思親
遥知兄弟登高処
遍挿□□少一人


独り異郷に在って異客となる
佳節に逢うごとに倍す親を思う
遥かに知る兄弟高きに登る処
遍くシュユ挿して一人を少くを


一人だけ故郷を離れ、異郷の地で旅人なっている。このめでたい節句の日が来るたびにいよいよ故郷の親兄弟が懐かしい。兄弟が高いところに登ってその折に、皆揃って赤いカワハジカミを頭に挿している。その中に自分一人だけ欠けている絵が眼前に浮かんで溜息をつくばかり。

同書の「鑑賞」によると、「この作品は王維の自註で、時に年17とある。山西省のいなかから、15歳のころ都の長安に出てきた。今でいう受験勉強のためである。といって、ただ勉強ばかりしていたのではない。上流階級の人たちに名を知られ、認められることも必要であった。絵に詩に音楽にと豊かな才能に恵まれた王維は、たちまち王侯貴族の間で評判になり、サロンの寵児となった。…(略)…この詩は九月九日、重陽の節句に故郷を懐かしんで作ったものである。重陽の節句には、『登高』といって高い所へ登って邪気払いをする風習があった。異郷にある者が高い所に登れば、故郷を懐かしく思うのも人情の自然。17歳の少年王維も、故郷にいれば家族そろって登高していただろう。が、今は異郷の都長安で、異客(仮住まいの身)となっているのである。起句の異郷異客は語呂の面白さをねらった。(迂生注:王勃の詩句を髣髴とさせる)…(略)…日常王侯貴族の間でいっぱしに交際していたであろうけれども、まだなんといっても17歳。その寂しさは、ついこういったところに出てしまう。いかにも少年らしい素直な感情がよく出た作品である」とある。

王維の這の詩は17歳ですよ。白居易の「王昭君」も17歳でした。天才の早熟性をいかんなく発揮しています。なんといっても単なる「早稲」ではなかったのは、その後の両人の活躍を見れば瞭然でしょう。

おっと、正解は「茱萸」。これがこの詩のpunch-lineですね。現代日本では「グミ」ですが、当時の中国では「カワハジカミ」のこと。赤い実がなり、邪気払いの力があると信じられていた。九月九日の節句には、茱萸を挿し、高所に登って菊酒を飲み、悪気を避け疫病を防ぐ風習があったといいます。

最後に、「詩聖」杜甫の「九日藍田の崔氏の荘」(七言律詩)を見ます。杜甫47歳の作品。「Around 50」も迫るのに、時の粛宋の怒りにふれ、左遷の憂き目にあっているさ中、その感懐を詠ったもの。読み下し文だけでご容赦ください(「漢詩鑑賞事典」、P306~308から)

老い去ってヒシュウ強いて自ら寛うす
興来って今日君が歓を尽くす
羞ずらくは短髪を将って還た帽を吹かるるを
笑って傍人を倩いて為に冠を正さしむ
藍水は遠くセンカンより落ち
玉山は高く両峰と並んで寒し
明年此の会知んぬ誰か健なる
酔って茱萸を把って仔細に看る


年老いたわたしは悲しき秋に当たり胸の思いをくつろげ、気の赴くままに本日は貴殿の歓待をたっぷりと受けさせてもらいます。薄毛なので風に帽子が吹き飛ばされると恥ずかしいです。そばにいるお方の手をわずらわせて直してもらうことの照れくささといったらありません。藍水は遠く千々の谷間の水を集め流れ落ち、玉山は高々とその双子の峰を並べて寒そうです。来年またこの会が催されたとしていったい健康で参加できる人は何人いるでしょう。酒に酔ってカワハジカミの実を指先につまみながらまじまじと見詰めるばかりです。

「杜甫詩選」(岩波文庫、P168~170)によると、この頷聯(3、4句)は陶淵明が「晋の故の征西大将軍の長史孟府君の伝」で述べた故事をベースにしている。晋の孟嘉(孟府君)が九日の宴(場所は竜山=今の湖北省江陵県西北)に、風に吹き落された帽子を種に一文を草して一座を感嘆させた、いわゆる「孟嘉落帽」と称されるもの。かぶっていた帽子が風で吹き飛ばされたことに気付かなかった孟嘉。宴の主催者である征夷大将軍桓温は一座の者に黙っているよう目配せし、名文家孫盛に命じてこれを嘲る文を書かせたが、厠から戻った嘉は考える間もなく超卓なる反駁文を書いて返したので、一座の者は一様に感嘆させられた。当意即妙の風流を表す故事として有名です。ちなみに孟嘉は淵明の母方の祖父です。

「ヒシュウ」=「悲秋
「倩う」=「やと・う」
「センカン」=「千㵎(澗)


老い先長くない轗軻不遇は身にこたえます。いや、心を抉ります。首聯(1、2句)と尾聯(7、8句)の心情は迂生も身につまされます。動かしがたいまでの心の叫びが頷聯の「詼けたユーモア」、頸聯(5、6句)の「川と山の自然描写」をがっちりと挟み込みます。「酔って」とあるが、これは実は、酔っていませんねぇ、いや、酔えていませんね。いつ果てるとも知れぬ命の短さを真っ赤な茱萸の実に重ねて見ている。長寿を願うはずの重陽の節句に詠まれる詩は悲しいものが多いですね。
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char

Author:char
不惑以上知命未満のリーマンbloggerです。
言葉には過敏でありたい。
漢検受検履歴
2006.3  漢字学習スタート
2006.6  2級合格
2006.10 準1級合格
2007.10 1級合格①
2009.2 1級合格②

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