「戯作三昧」も翫わって…「滾々」「糅然」「憮然」〔芥川龍之介作品学習シリーズ(from 「mixi日記」 of char)〕⑦
芥川転載シリーズの7回目です。
【さまよえる猶太人】
●聳つ(そばだつ)
「だから十三世紀以前には、少くとも人の視聴を聳たしめる程度に、彼は欧羅巴の地をさまよわなかったらしい。」
→山や岩などがひときわ高く立つ。そびえる。1級配当で音読みは「ショウ」。訓読みはほかに、「そび・える」「そび・やかす」があり。2008年1月21日付「屹」も参照。熟語では「聳峙」(ショウジ)、「聳然」(ショウゼン)、「聳動」(ショウドウ)、「聳立」(ショウリツ)、「聳懼」(ショウク)などあります。「そびやかす」は「ことさら高くすること」で、「肩を聳やかす」と言えば、「威張っている様子」です。音符は「従」の旧字で、ほかにいずれも1級配当の「蹤」(あと)、「樅」(もみ)、「慫」(すすめる)があります。
●杳として(ようとして)
「爾来、今日まで彼の消息は、杳としてわからない。」
→「暗闇に紛れたかのごとく」といった意味でしょうか。通常は否定語を続けて使う。「杳」は1級配当で、「ヨウ」「くら・い」「はる・か」。「杳杳」(ヨウヨウ)ははるかすぎて見えないさま。「杳邃」(ヨウスイ)、「杳眇」(ヨウビョウ)も読めるようにはしましょう。ちなみに、木と日が上下ひっくり返った「杲」という漢字もあって、これも1級配当ですが、読みは「コウ」「あきらか」「たかい」。「杲杲」(コウコウ)は太陽が光り輝くさまを表します。木の上の日でイメージしやすいですな。ということは、「杳」も木の下に日が隠れて暗くなり、消息や行方が知れなくなるということですな。うまい。
●窘める(くるしめる)
「が、クリストが十字架にかけられた時に、彼を窘めたものは、独りこの猶太人ばかりではない。」
→苦しめる艱しい言い方。送り仮名は「窘しめる」が一般的でしょう。「窘」は1級配当で音読みは「キン」「くる・しむ」「たしな・める」。「窘窮」(キンキュウ)、「窘急」(キンキュウ)、「窘迫」(キンパク)、「窘困」(キンコン)、「艱窘」(カンキン)、「窘境」(キンキョウ)、「困窘」(コンキン)、「窮窘」(キュウキン)など。「くるしむ」という意味から派生して、日本では「たしなめる」ができました。漢検では必須です。
●邂逅(カイコウ)
「この覚え書によると、『さまよえる猶太人』は、平戸から九州の本土へ渡る船の中で、フランシス・ザヴィエルと邂逅した。」
→思いもかけず出会うこと。運命的な出会い。巡り合い。いずれとも1級配当漢字で、「あ・う」。しんにょう・k音の連続熟語です。この熟語でしか使いません。あうには、「遘う」「逑う」「覿う」「覲う」「覯う」「晤う」「盍う」があります。
【二つの手紙】
●鞅掌(オウショウ)
「かような事を、くどく書きつづけるのは、繁忙な職務を御鞅掌になる閣下にとって、余りに御迷惑を顧みない仕方かも知れません。」
→手いっぱいに仕事を受けてひどく忙しいこと。「掌鞅」とも。「鞅」は1級配当で「オウ」「むながい」「にな・う」。文字通り手のひらいっぱいに担うこと。この熟語はよく出ます。書けるように。「鞅鞅」(オウオウ)は楽しくないさま=「怏怏」(オウオウ)の方が一般的でしょうか。
●譏(そしり)
「猶これから書く事も、あるいは冗漫の譏を免れないものかも知れません。」
→非難。1級配当で「キ」「そし・る」「とが・める」。「譏笑」(キショウ)、「譏讒」(キザン)、「譏誚」(キショウ)、「譏謗」(キボウ)、「譏評」(キヒョウ)、「譏諷」(キフウ)など数多くの熟語あり。そしるでは、「刺る」「貶る」「讒る」「譛る」「譖る」「誣る」「誚る」「詬る」「詆る」「詛る」「疵る」「毀る」「呰る」「非る」「誹る」「謗る」など。どうでしょう。全部覚えられますか?書くのはどれか一つでいいと思いますが、少なくとも読むことはすべてできなければなりません。ただ、それぞれ音読みは大変です。一つ一つ熟しましょう。
●錯愕(サクガク)
「そうして私は実に、そう云う外界の中に、突然この存在以外の存在を、目前に見たのでございます。私の錯愕は、そのために、一層驚くべきものになりました。」
→慌て驚くこと。「愕」は1級配当で「ガク」、訓は「おどろ・く」。「愕然」(ガクゼン)、「愕愕」(ガクガク=直言)。音符「咢」の漢字は多くあり、「齶」「鶚」「鄂」「諤」「萼」「鍔」「顎」「鰐」。「侃侃諤諤」(カンカンガクガク)は必須。これまでも折りに触れて解説してきました。復習しましょう。おどろくでは、「慫く」「懼く」「怛く」「咢く」「駭く」「顫く」。
●《岐路》に入れる(えだみちにいれる)
「私は感情の激昂に駆られて、思わず筆を岐路に入れたようでございます。」
→話が横道にそれること。本筋を外れること。脱線。熟字訓です。もちろん「キロ」と読めば、分かれ道のことです。こういう言い方は初めて見ました。「岐」は表外訓みで「わか・れる」「ちまた(=巷)」があります。
●咫尺の間(シセキのカン)
「閣下、私はこの時、第二の私と第二の私の妻とを、咫尺の間に見たのでございます。」
→きわめて近い距離。「咫」は1級配当で「シ」「た・あた」。古代中国の長さの単位で約18センチメートル。「た」と訓むと日本の上代の長さで「八咫之鏡」(やたのかがみ=三種の神器のひとつ)、「八咫烏」(やたがらす=日本神話の三本足のカラス、サッカー日本代表チームの紋章)に使われます。
●俚謡(リヨウ)
「現にこの頃では、妻の不品行を諷した俚謡をうたって、私の宅の前を通るものさえございます。」
→民間で歌われる流行歌。街歌。民謡。俗曲。鄙歌(ひなうた)。里謡の書き換え。「俚」は1級配当で「リ」「いやしい」。「俚歌」(リカ)、「俚諺」(リゲン)、「俚言」(リゲン)、「俚耳」(リジ)、「俚俗」(リゾク)など。とどのつまりはいなかのことです。いやしいでは、「隘しい」「陋しい」「鄙しい」「裨しい」「仄しい」「賎しい」「埜しい」「野しい」「寒しい」「匹しい」「劣しい」「俗しい」があります。
●喋々する(チョウチョウする)
「私の同僚の一人は故に大きな声を出して、新聞に出ている姦通事件を、私の前で喋々して聞かせました。」
→ぺらぺらとおしゃべりを続ける。賑やかしくしゃべる。「喋」は準1級配当で「チョウ」「しゃべ・る」。四字熟語に「喋々喃々」(チョウチョウナンナン)があり、「小声で親しげに話し合うさま」。特に男女がひそひそ声で仲睦まじく語り合う様子を云います。「喃」は1級配当で「ナン・ダン」「しゃべ・る」「のう」。「喃語」(ナンゴ)は赤ん坊のしゃべり。○△□×…何を言っているのか分かりません。「のう」は同意を求める呼びかけの接尾語で、「綺麗だ喃」(きれいだのう)、「ひっひっひぃ~、たまらん喃」。
●無辜(ムコ)
「世間はついに、無辜の人を殺しました。そうして閣下自身も、その悪む可き幇助者の一人になられたのでございます。」
→罪のない。「辜」は1級配当で「コ」「つみ」「ひとりじ・め」「そむ・く」。「不辜」(フコ)、「辜較」(ココウ=利益を辜め)、「辜磔」(コタク=はりつけ)、「辜負」(コフ=相手の気持ちに辜く)。「幇助」(ホウジョ)は「人の罪を助けること」。
【ある日の大石内蔵助】
●嵯峨(サガ)
「立てきった障子にはうららかな日の光がさして、嵯峨たる老木の梅の影が、何間かの明みを、右の端から左の端まで画の如く鮮に領している。」
→山などが高くてけわしいさま。ともに準1級配当。「嵯」は「サ」。「峨」は「ガ」「けわ・しい」。「嵯嵯」「峨峨」。けわしいでは、「隗しい」「隘しい」「艱しい」「巉しい」「嶮しい」「嶬しい」「嶢しい」「嶄しい」「嶇しい」「嵒しい」「嵌しい」「崚しい」「峭しい」「崢しい」「岑しい」「屹しい」「嵳しい」「峩しい」。
●かんがりと
「金網をかけた火鉢の中には、いけてある炭の底に、うつくしい赤いものが、かんがりと灰を照らしている。」
→明るいさま。明らかに見えるさま。当てる漢字はなし。
●讐家(シュウカ)、細作(サイサク)、放埒(ホウラツ)
「しかも讐家の放った細作は、絶えず彼の身辺を窺っている。彼は放埒を装って、これらの細作の眼を欺くと共に、併せてまた、その放埓に欺かれた同志の疑惑をも解かなければならなかった。」
→仲の悪い相手。天敵。この場合は吉良上野介ですね。「讐」は1級配当で「シュウ」「あだ」「むく・いる」。「復讐」は基本。「恩讐の彼方に」。「仇讐」(キュウシュウ)、「讐敵」(シュウテキ)は宿敵のこと。「校讐」(コウシュウ)と「讐定」(シュウジョウ)は「二人で読み合せて校閲すること」。あだでは、「寇」「仇」「冦」「寃」「冤」「敵」。
→忍びの者。間者。間諜。五列。遊偵。すっぱ。スパイ。これは初めて見ました。
→酒色に耽り、素行がおさまらないこと。勝手気ままな振る舞い。類義語は「放蕩」。「埒」は1級配当で「ラツ」「ラチ」「かこい」。「不埒」(フラチ)、「埒外」(ラチガイ)、「埒内」(ラチナイ)。馬が馬場の囲いを飛び出てしまうことから、身を持ち崩すことを指しています。
●佯狂(ヨウキョウ)
「高尾や愛宕の紅葉狩も、佯狂の彼には、どのくらいつらかった事であろう。」
→狂人のふりをすること。陽狂とも。「佯」は1級配当で「ヨウ」「いつわ・る」。「佯病」(ヨウビョウ)は仮病のこと。「佯死」(ヨウシ)は死んだふり。「佯言」(ヨウゲン)は口からでまかせ。
●彳む(たたずむ)
「――内蔵助は、青空に象嵌をしたような、堅く冷い花を仰ぎながら、いつまでもじっと彳んでいた。」
→「彳」は配当外(JIS第2水準5538)。読みは「テキ」「チャク」「たたず・む」。たたずむでは「竚む」「站む」「佇む」があります。「鶴立企佇」(カクリツキチョ)、「佇立」(チョリツ)、「兵站」(ヘイタン)などの熟語があります。
【女体】
●蠕々然(ゼンゼンゼン)
「それがやがて、はっと眼がさめたような気に帰ったと思うと、いつか楊の魂はあの虱の体へはいって、汗臭い寝床の上を、蠕々然として歩いている。」
→虫が身をくねらせてはっていくさま。「ジュジュゼン」ともよむ。同じうごめくさまを表すのに「蠢々然」(シュンシュンゼン)というのもあります。「蠕」は2008年1月20日付日記を参照。「○○然」という言い方では「憖憖然」(ギンギンゼン=わらうさま。うやまいつつしむさま)、「栩栩然」(ククゼン=蝶のようにふわふわと)が思い浮かびます。
●凝脂(ギョウシ)
「その白さがまた、凝脂のような柔らかみのある、滑な色の白さで、山腹のなだらかなくぼみでさえ、丁度雪にさす月の光のような、かすかに青い影を湛えているだけである。」
→こりかたまった脂肪。白くつやのある肌。「凝脂」と言えば、楊貴妃の肌の白さの代名詞です。白居易の長恨歌に
春寒くして浴を賜う華清の池
温泉水滑らかにして凝脂を洗う
侍児扶け起こせども嬌として力無し
始めて是新たに恩沢を受くるの時
との件があります。
凝脂は「すきとおったぽっちゃりおはだ」ってな感じでしょうか。
しかし、見飽きた自分の古ワイフの肌。虱になって見れば凝脂ですか?本当ですかねぇ?でも虱の視点からみる女を想像すると、ちょっとエロチックですな。
【片恋】
●半道(ハンドウ)
「そもそも、日本人だと思うのが間違いなんだ。毛唐の役者でね。何でも半道だと云うんだから、笑わせる。」
→歌舞伎に出てくる半道敵(はんどうがたき)の略。敵役でありながら滑稽なしぐさやセリフで観客を笑わせる、敵役と道化役の両方の要素を合わせ持つ役柄の名称。「半分道化の敵役」ということで名が付いた。歌舞伎十八番『暫(しばらく)』の通称「鯰坊主」、『仮名手本忠臣蔵』の「鷺坂伴内(さぎさかばんない)」などが代表例。と言っても、歌舞伎は私と風馬牛の間柄で、まったく分かりません。
【黄粱夢】
●寵辱(チョウジョク)、窮達(キュウタツ)
「では、寵辱の道も窮達の運も、一通りは味わって来た訳ですね。それは結構な事でした。」
→愛されることとはずかしめられること。得意と失意。「寵」は準1級配当で、「チョウ」「めぐ・む」。「寵愛」「寵姫」(チョウキ)、「寵児」「寵妾」(チョウショウ)、「寵臣」「寵異」(チョウイ)、「寵幸」(チョウコウ)、「寵用」など、とにかく「お気に入り」。「嬖」(ヘイ、1級配当)という漢字もあります。きにいり。「嬖妾」(ヘイショウ)、「嬖臣」(ヘイシン)、「嬖人」(ヘイジン)、「嬖幸」(ヘイコウ)、「内嬖」(ナイヘイ)、「嬖寵」(ヘイチョウ)もあります。
→困窮と栄達。貧乏と富貴。窮通。栄枯盛衰もそうでしょう。
【戯作三昧】
●憮然(ブゼン)
「老人は憮然として、眼をあげた。あたりではやはり賑かな談笑の声につれて、大ぜいの裸の人間が、目まぐるしく湯気の中に動いている。」
→あやしみ驚くさま。元来は、失望してぼんやりするさま。失望や不満でやりきれないさま。決して怒り心頭に発しているのではありません。よく誤用例が見つかります。「憮」は1級配当で「ブ」「いつくしむ」「がっかりする」。「いかっている」という意味はありません。音符の無は「ブ」で、このほかに「嘸」(さぞ、1級)、「廡」(ひさし、1級)、「撫」(な・でる、準1級)、「蕪」(かぶ・かぶら、準1級)があります。
●《瞽女》(ごぜ)
「船虫が瞽女に身をやつして、小文吾を殺そうとする。それがいったんつかまって拷問されたあげくに、荘介に助けられる。」
→三味線を弾きながら農村・山村を巡る盲目の女性遊行芸人。熟字訓。段物や口説、民謡などをきかせ、喜捨の米や祝儀が収入源となった。めくらごぜ。「瞽」は1級配当で音読みは「コ」「おろか」。「瞽言」(コゲン)は妄言のこと。篠田正浩監督の映画「はなれ瞽女おりん」(1977年)は岩下志麻姐さんが主演の瞽女を演じました。1970年に国の無形重要文化財になった杉本キクエという瞽女もいたそうです。
●批(ヒ)
「その手前でさえ、先生の八犬伝には、なんとも批の打ちようがございません。」
→付き合わせてよしあしを決める。「批点」は「詩歌や文章を批評してうつ評点」で転じて「欠点」「きず」。「批」は簡単な漢字ですが、「批鱗」「批疑」「批点」「批准」「批正」などいろんな意味があります。
●羅貫中(ラカンチュウ)
「まず当今では、先生がさしずめ日本の羅貫中というところでございますな――。」
→中国の元末・明初の小説家・戯曲作者。著に「三国志演義」、雑劇「竜虎風雲界」がある。
●畸形(キケイ)
「そうしてそういう不純な動機から出発する結果、しばしば畸形な芸術を創造する惧れがあるという意味である。」
→奇形の書き換え。「畸」は1級配当で「キ」「あまり」「はんぱ」。「畸人」はかたわ・身体障害者、あるいは「孤高の人」。
●婆娑(バサ)
「切り貼りの点々とした白い上には、秋の日に照らされた破れ芭蕉の大きな影が、婆娑として斜めに映っている。」
→影などの乱れ動くさま。あまり見かけないことばですが、「婆娑羅」(バサラ)から来ているのでしょう。バサラは、鎌倉時代終盤から室町時代に流行ったファッションスタイルで「派手に見栄を張ること。だて」。《時勢粧》とも書きます。1336年に足利尊氏が新政権の施政方針として定めた一七条の建武式目の第一条に、「近日婆娑羅と号して、専ら過差を好み、綾羅錦繍、精好銀剣、風流服飾、目を驚かさざるはなし、頗る物狂といふべきか、富者はいよいよこれを誇り、貧者は及ばざるを恥づ、俗の凋弊これより甚しきはなし、もっとも厳制あるべきか」とあるほど、当時を席巻した風潮で新しい秩序形成に嚮けまずはこれを戒めました。「此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨…」で書き出す有名な「二条河原落書」にも、「バサラ扇ノ五骨、ヒロコシヤセ馬薄小袖」の件が見えます。「下克上」もそうした風潮の現れでしょう。
ちなみにさかさまにした「娑婆」は「シャバ」。牢獄に対する外の自由な世界。俗世間。
●金瓶梅(キンペイバイ)
「客は、襖があくとともに、滑らかな調子でこう言いながら、うやうやしく頭を下げた。これが、当時八犬伝に次いで世評の高い金瓶梅の版元を引き受けていた、和泉屋市兵衛という本屋である。」
→中国明時代の長編小説。四大奇書のひとつ。水滸伝をベースに、富豪西門慶に毒婦潘金蓮を配し、家庭の淫蕩で紊乱した状況を描き、明代の政治の腐敗や富豪階級の頽廃ぶりを活写した。完膚無き迄の古典エロ小説。林真理子が江戸時代に舞台を移した「本朝金瓶梅」を上梓しています。あまり売れていないそうですがかなり大胆なSEX描写だとか。
ちなみに四大奇書のあと三つですが、「三国志演義」「水滸伝」「西遊記」です。
●《招牌》(かんばん)
「だから『諸国銘葉』の柿色の暖簾、『本黄楊』の黄いろい櫛形の招牌、『駕籠』の掛行燈、『卜筮』の算木の旗、――そういうものが、無意味な一列を作って、ただ雑然と彼の眼底を通りすぎた。」
→熟字訓だが「ショウハイ」と音読みもある。中国語では「チャオパイ」。「牌」は準1級配当で「ハイ」「ふだ=文字を書いて掲げる札」。人を招く札だから「看板」ですね。「牌示」(ハイジ)、「牌子」(ハイシ)、「牌榜」(ハイボウ)のいずれも看板です。「位牌」(イハイ)、「骨牌」(コッパイ)、「賞牌」(ショウハイ=メダル)、「牙牌」(ガハイ=象牙の牌)などの下付き熟語もお忘れなく。
●食客(ショッカク)
「ついてはこういう田舎にいては、何かと修業の妨げになる。だから、あなたのところへ、食客に置いて貰うわけには行くまいか。」
→自分の家に客分として抱えておく人。中国の春秋戦国時代には、一技一能にすぐれながら、不遇を託った者が、お客待遇で有力者にめしかかえられ、事が起こると主人のために働く。門客とも。日本では、寄食する人、居候のことをいい微妙に異なる。「食客三千」(ショッカクサンゼン)という成句があり、戦国時代の斉の宰相・孟嘗君が権勢を誇り、数千人の食客を抱えていたとされる。有名な「鶏鳴狗盗」(ケイメイクトウ)も、狗のように盗みが巧い食客、あるいはまた鶏の泣き声が得意な食客、そんな一般にはたいしたことないとされる技を持った食客たちが、孟の窮地を救ったことから生まれた故事成語です。
もっとも、本文の場合は、馬琴に弟子にして居候させてくれということですね。
●《楔子》(くさび)
「が、耳の遠いということが、眼の悪いのを苦にしている彼にとって、幾分の同情をつなぐ楔子になったのであろう。」
→「ケッシ・セッシ」とも読み、物事の最も重要なこと。物と物とを繋ぐきずな。「楔」一字で「くさび」。「楔」は1級配当で「セツ」「ケツ」「くさび」。「くさび」は、V字形の木片や金属片。ゆるまないように隙間に差し込んで用いる。「楔形」(セッケイ・ケッケイ)「楔状」(ケツジョウ)。「楔形文字」は「くさびがたモジ」。古代メソポタミア文明のくさびの形をした文字で、粘土板に角のとがった葦の茎で刻まれた。
●《草秣》(まぐさ)
「偶然開いたところは豹子頭林冲が、風雪の夜に山上廟で、草秣場の焼けるのを望見する件である。」
→飼い葉。牛馬の飼料にする草やわらのこと。馬草とも。「秣」は1級配当で「マツ」、これ一次で「まぐさ」。「芻秣」(スウマツ→「芻」もまぐさの意)、「糧秣」(リョウマツ)、「秣馬」(マツバ=牛馬を飼うこと)、「秣粟」(マツゾク=穀物のかいば)。「草秣場」は秣を集める場所。転じて一定地域の住民が共同で使用する山野原林。萱場。
豹子頭林冲(ヒョウシトウリンチュウ)は水滸伝の登場人物。豹子頭があだ名で林冲が本名。
●磅礴(ボウハク、ホウハク)
「彼は戯作の価値を否定して『勧懲の具』と称しながら、常に彼のうちに磅礴する芸術的感興に遭遇すると、たちまち不安を感じ出した。」
→生気がいっぱいに満ち溢れるさま。満ち満ちてひた寄せる。「旁薄」(ホウハク)とも書く。「磅」は1級配当で「ホウ」「ポンド」。石の隊ちる音。満ち広がるさま。はびこるさま。「滂」と同義。「磅唐」(ホウトウ=広くはびこる)もあります。「礴」は配当外(JIS第3水準8918)で、「ハク・バク」。広く覆う。満ちふさがるさま。石偏+h音の連続熟語。「滂湃」(2008年1月14日付日記「神神の微笑」参照)と似ています。
ちなみにKAT-TUNの亀梨和也クンの主演ドラマは「一磅の福音」(イチポンドのフクイン)。「一磅」は英国の重さの単位で「約0・4536キログラム」。
●《遠近》(おちこち)
「絵は蕭索とした裸の樹を、遠近と疎に描いて、その中に掌をうって談笑する二人の男を立たせている。」
→ここかしこ。あちらこちら。熟字訓。意外と読めないかも。《彼此》《彼方此方》とも書きます。時間的な過去と未来をいうときもあります。
「蕭索」は「ものさびしいさま」。「疎」は表外訓みで「まばら」。
●〔後生恐るべし〕
「古人は後生恐るべしと言いましたがな。」
→「後生畏るべし」の方が一般的。成語林によりますと、「自分よりあとから生まれてくる者は、年が若く気力もあり、将来への可能性をもっているから、一生懸命学問に励んだら、その進歩は畏敬すべきものがあるということ」。出典は論語「子罕」。「後生」を「後世」と誤りがち。正しいとする説もありますが。このあとは「焉んぞ来者の今にしかざるを知らんや」(これからの若者がどうして我々と比べ劣っているということが分かろうか?)。しかし、さらに続きます。「四十五十にして聞こゆるなきは、斯れ亦た畏るるに足らざるのみ」(しかし、しっかりした志も持たず四十歳、五十歳になってもその名が世間に現れないようでは、もう畏れるにはあたらない。)四十、五十歳までの努力こそ大事になりますね、う~む、身につまされますな。
●糅然(ジュウゼン)
「すると、これもまたいたずらに粗雑な文句ばかりが、糅然としてちらかっている。彼はさらにその前を読んだ。」
→まとまりなく入りまじるさま。入り乱れるさま。雑然。「糅」は1級配当で「ジュウ」「ま・じる」「いりま・じる」「か・てる」「かて」。「雑糅」(ザツジュウ)、「紛糅」(フンジュウ)など。「かてる」は「やわらかくまぜあわせる」。「糅飯」(かてめし)は「米に雑穀や芋などをまぜて炊いた飯。かて」。「糅てて加えて」は「その上に。さらに。普通はよくない事が重なるときに使う」。
●布置(フチ)
「しかし読むに従って拙劣な布置と乱脈な文章とは、次第に眼の前に展開して来る。そこには何らの映像をも与えない叙景があった。」
→ものを適当に配置すること。また、そのありさま。この場合の布は、「布陣」「公布」「布教」「布告」「布石」などの表外読みの「しく」(広く行き渡らせる)という意味ですね。
●蹲螭(ソンリ?→ソンチ)、硯屏(ケンビョウ)
「この上にある端渓の硯、蹲螭の文鎮、蟇の形をした銅の水差し、獅子と牡丹とを浮かせた青磁の硯屏、それから蘭を刻んだ孟宗の根竹の筆立て――そういう一切の文房具は、皆彼の創作の苦しみに、久しい以前から親んでいる。」
→「螭」は配当外(JIS第3水準9162)で、「チ」「みずち=想像上の竜。四脚をもち毒を出す」。「魑魅魍魎」(チミモウリョウ)の「魑」(チ=旁は螭と同じ)もあるように化け物です。「蹲」は1級配当で「ソン」「うずくま・る」。「蹲螭の文鎮」は調べてもよく分からないのですが、そのまま「蹲っているみずち」を形にした文鎮なのでしょうか。ただし読みは「ソンリ」ではなく「ソンチ」が正しく、誤植と思われます。慥かに音符は「離」「璃」と同じで「リ」と読みたくなりますが、意味から云うと「魑」と通じており「チ」ですね。ちなみに「魑魅魍魎」は1級受検者は書けなければいけません。
→「硯屏」(ケンビョウ)は「硯の前に置き飾る衝立。玉、堆朱、蒔絵、螺鈿細工各種、陶器の青磁・染付・色絵他、紫・黒檀の受台に陶板の取り変えが可能なものや唐木に彫刻をほどこす」。硯に衝立があったなんて知りませんでした。「硯」は準1級配当で「ケン」「すずり」。「端渓の硯」が特に良質で有名。「中国広東省産の端渓石で作られ、墨のおりがよく、美しい文様がある」という。「硯池」(ケンチ)、「硯海」(ケンカイ)は「硯の水を溜める凹みの部分」、「硯北」(ケンポク)は「手紙の宛名の脇に添える敬意語。机下」。四字熟語には「磨穿鉄硯」(マセンテッケン=猛勉強)、「筆耕硯田」(ヒッコウケンデン=文筆業)があります。
ちなみに「碩」という漢字は「硯」とよく似ており、注意が必要です。こちらは「セキ」「おお・きい」と読み、「碩学」(セキガク)、「碩師名人」(セキシメイジン)、「碩儒」(セキジュ)などでつかう。前日本経団連会長の奥田碩氏は「おくだ・ひろし」。「おくだ・すずり」と呼んでいた人がいて笑ったことがあります。
●〔遼東の豕〕(リョウトウのシ)
「その彼が、結局自分も彼らと同じ能力の所有者だったということを、そうしてさらに厭うべき遼東の豕だったということは、どうしてやすやすと認められよう。」
→通常は「リョウトウのいのこ」という。成語林によりますと、(「遼東」はいまの遼寧省南部の地)遼東の豚は天下の珍種と思っていたが、実はありふれた豚であったということから)ひとりよがり。世間知らず。平凡なことを自分だけですばらしいと思って自慢する愚を嘲笑う喩え。出典は後漢書「朱浮伝」。「夜郎自大」(ヤロウジダイ)、「井底之蛙」(セイテイノア)も同じですね。これは戒めの句です。毎に自戒しなければなりません。「豕」は1級配当で「シ」「い・いのこ」。豚類の総称。四字熟語に「封豕長蛇」(ホウシチョウダ=貪慾で残酷な人)、「豕交獣畜」(シコウジュウチク=獣並みの扱い)があります。「豕心」(シシン)は、「貪りな心」。「豕牢」(シロウ)は「豚小屋・トイレ」。猪突猛進があるので「豕突」(チョトツ)は「向こう見ず」。とにかく「豕」には、いい意味はありませんね。
●滾々(コンコン)
「頭の中の流れは、ちょうど空を走る銀河のように、滾々としてどこからか溢れて来る。」
→水が盛んに流れて竭きないさま。物事が竭きないさま。袞袞、渾渾とも。「滾」は1級配当で「コン」「たぎ・る」。「お湯が煮え滾る」。
●尫弱(オウジャク)
「少し離れたところには尫弱らしい宗伯が、さっきから丸薬をまろめるのに忙しい。」
→かよわいこと。虚弱。羸弱。孅弱。孱弱。「尫」は配当外(JIS第3水準4762)で「オウ」「よわ・い」。「尫怯」(オウキョウ)は「よわむし」。「尫闇」(オウアン)は13代将軍徳川家定でしょうか。徒然草第206段に「尫弱の官人、たまたま出仕の微牛をとらるべきやうなし」とありますが、体が弱いのではなく懐が寒い貧乏役人のことですね。